時間管理アプリはなぜ15分単位に丸めてしまうのか
その電話は実際には6分だった。それなのにアプリが記録したのは15分――アプリが返せる最小の単位がそれだからだ。14分の電話も同じ15分になる。11分の電話も同じだ。長さの違う三つの電話が、アプリの中ではまったく同じ姿で出てくる。しかもそのどれも、本当は15分ではなかった。この数字は間違っているわけではない。ただ、実際に起きたことを何も表していないだけだ。それは、元になった6分と一致するかどうかとは関係なく、この形式がもともと出すように作られていた数字にすぎない。
丸めの仕組みは、あなたのためではなく請求書のために作られた
15分単位、時には10分の1時間単位という固定の刻みは、かなり具体的な場面から来ている。時給で請求する仕事だ。クライアントはブロック単位で支払うので、「6分の電話、417円」というような明細を誰も請求書に載せたくない。きりのいい単位に丸めれば計算は簡単になり、請求書も読みやすくなる。請求する側にとっては筋の通った解決策だ。ただそれは、自分の一日を正直に記録したいだけの人にはまったく関係のない話だ。それでもこの慣習は、ほとんどの時間管理アプリのデフォルトとして受け継がれている。これらのアプリはもともと請求業務を主な用途として作られており、それ以外の人はただ同じ丸めの仕組みを一緒に受け取っただけなのだ。
丸めた数字は正確に見えて、実は正確ではない
見落とされがちなのはここだ。「0:15」という数字は、いかにも正確そうに見える。実際に15分を計測した場合とまったく同じ、きちんとした形をしているからだ。しかしその数字は、元になった記録が6分だったのか14分だったのかを教えてくれない。どちらも同じ一つの数字に置き換わって消えてしまっている。この記録は、実際に持っている確かさ以上の確かさをまとって見える。あなたが目にしているのは、実際に起きたことそのものではなく、いくつか決まった数字しか出さない仕組みを通した後の姿であり、後からではどの実際の値が入力されたのか分からない。
一度の誤差は小さくても、積み重なると小さくない
電話一本を丸めた程度の誤差は、些細なもので誰も気にしないだろう。しかし一日は一本の電話だけで終わらない。短い中断が一日に8回あり、そのたびに一番近い15分単位に切り上げられたとすると、実際の中断の合計はせいぜい40分程度なのに、アプリ上では2時間の「記録された時間」になっていることもある。個々の丸めはどれも、その場では不正直には感じられない。しかし一日分、さらに一週間分と積み重なると、その合計は、実際に過ごした感覚とは静かに食い違っていく。何かの記録を間違えたからではなく、目を離してまた戻すたびに、道具の側が毎回時間を切り上げていたからだ。
短すぎて丸める対象にすらならない出来事もある
これとは逆の失敗も、すぐ隣に存在する。アプリの最小単位に満たない出来事は、切り上げられるどころか、ゼロに切り捨てられることがある。あるいは、そもそもそんな短い出来事を記録するようアプリが促してすらこない。同僚のためにした2分の頼まれごと、その後の展開を左右した短いメッセージ、その日の流れを変えた短い立ち話――どれもその基準を満たさず、記録には残らない。その日、それらは確かに起きていた。ただ、その仕組みがそこまで小さな出来事に気づくようには作られていなかっただけだ。目に見えない最小サイズを持つ記録には、最も小さく、最も忘れられやすい瞬間のところに、ちょうど空白ができる。
時間の長さを取り除けば、丸める対象そのものがなくなる
ここまでの問題はすべて、同じ一つの決定から生まれている。その道具は時間の幅を測っていて、幅である以上、何らかの単位で表現しなければならず、単位である以上、固定の大きさを持たなければならない。そもそも時間の幅を測らない記録には、丸めが取りつく場所がない。「工事業者と日程変更について短く電話」と書くとき、それを15分の枠にも、10分の枠にも、どんな枠にも収める必要はない。ただ本当のことであればよく、その電話が実際には2分だったか12分だったかにかかわらず、この一文はまったく同じように成り立つ。一行の文章の下には、それを一番近い何かに丸めようと待ち構えている単位など、そもそも存在しない。
TimeMapがこの形をとっているのは、たまたまこの問題を避けられたからではなく、最初からそう設計されているからだ。時間の長さはそもそも記録する項目になっていない。だから一行の裏に15分の枠が隠れていることもなければ、書かれるに値するために出来事が満たすべき最短の長さもない。していたことを書き、色をつける。それが実際には2分だったか2時間だったかにかかわらず、その記録は同じように成り立つ――一度も丸められたことがない。なぜなら、一度も測られたことがないからだ。
丸められた数字が、それが表すはずだった瞬間よりも自信ありげに見えたことがあるなら、その自信は単位から借りてきたものであって、記録そのものが手にしたものではない。ただ「何が起きたか」だけを書いた一文には、この問題がない。最初から数字になろうとしていなかったからだ。