一日の記録は、分単位で正確でなければいけないのか
午後にあったことを一行書こうとして、最初に手を止めるのは「何を書くか」ではなく、「あれは何時だったか」という細かいこだわりだったりします。二時だったか、二時二十分だったか。この迷いは本物ですが、ほとんどの場合どうでもいいことでもあります。計測系のアプリを使い込んだ人ほど身についているこの反射は、記録そのものにはあまり必要ありません。
なぜ分単位が気になっていたのか
タイマー系のアプリを使ったことがあれば、あの流れを覚えているはずです。開始を押した瞬間、画面の数字は小さな約束になります。二分遅れて押せば合計は狂い、止め忘れればもっと狂い、しかもそれが妙に自信満々な顔をして残ります。この仕組みは「何かを書く前に、まず時刻を合わせる」という癖を育てます。その癖を記録に持ち込むと、本来四秒で終わるはずの一行が、要らない正確さをめぐる小さな駆け引きに変わってしまいます。
この癖は、それが生まれた場所では理にかなっていました。ただ、あなたの記録をもとに誰かが計算をするわけではない場面まで持ち込むと、意味を失います。
記録が本当に答えようとしていること
一日の記録が答えようとしているのは、「だいたいそのころ何をしていたか」であって、「何秒から始まり、何分続いたか」ではありません。この最初の問いをもう一度見てみると、そこには「所要時間」という考え方自体が入っていません。効いているのは「だいたいそのころ」の部分です。その一行を一日の流れの中に置けるだけの手がかりがあればよく、昼食のあと、電話の前だとわかるだけでよく、半年後に自分で見つけられるだけでよい。そこに分単位の正確さは要らず、必要なのは「その午後」を間違えないことだけです。
自分の生活を普段どう覚えているか考えてみてください。姉との電話が四時十二分に始まったとは覚えていません。子どもを迎えに行ったあとで、長く話し込んだ、と覚えています。記憶の働き方に近い記録は、記憶より正確である必要はなく、記憶より長く残ればそれで十分です。
正確さがどこで役立ち、どこでただの負担になるか
- クライアントに時間単位で請求する場合:分単位は重要です。あとで誰かがその数字をもとに計算するからです。
- ある時期をふり返って、どんな日々だったかを知りたい場合:分単位はただの雑音です。二年後に読み返して、三時四十七分と三時五十分の違いを気にする人はいません。
- ある瞬間に自分がどこにいたかを証明する場合:これはまれなケースで、カレンダーやレシート、メッセージの履歴のほうが向いています。
- 夜の時間がいつの間にか一つのことで埋まっていたことに気づく場合:記録が存在し、だいたい順番に並んでいればよく、秒単位の正確さは要りません。
自分の過去の日々を見返すときに人が本当に欲しがっているものは、たいてい二番目のケースに入っていて、一番目には入っていません。請求書に必要な正確さと、記憶に必要な正確さは、そもそも違う物差しであり、自分が今どちらの物差しを使おうとしているのか、一度立ち止まって考える価値があります。
「だいたいで十分」とは具体的にどういうことか
実際には、「だいたいで十分」とは、思い出したときに書く、それだけです。出来事のその瞬間でも、一時間後にコーヒーを飲みながらでもかまいません。タイムスタンプは今の時刻でも、出来事が起きただいたいの時刻に合わせて後から調整してもよく、そこに落ち着けばよいのです。「だいたいの時刻」と「正確な時刻」の差を誰かが監査することはありません。「業者と長電話、キッチンの工事がまた延びた」という一行を、実際には午後二時に起きたことについて午後六時に書いたとしても、そこで失われる大事なものは何もありません。来年の春に読み返す自分は気づかないでしょうし、気づいたとしても気にしないでしょう。
分単位にこだわるコストも、決して小さくありません。あの十秒ほどの余計な手間こそ、かつてタイマー系のツールを続けられなくした原因の一つでした。手軽なはずの一言が面倒な作業に変わり、面倒な作業はいずれやめられます。求めるものが少ない記録ほど、一年後も手元に残っている可能性が高くなります。
TimeMapについて
TimeMapは開始時刻も終了時刻も尋ねません。そもそも所要時間を測っていないので、何かが動いていて分単位で狂う、ということ自体が起きないからです。していることを書き、色をつけて、それで先へ進むだけです。タイムスタンプが多少ずれていても、その記録があとで役立つ度合いは変わりません。残しておく必要があったのは分単位の時刻ではなく、それが確かに起きたという事実と、その日のだいたいどのあたりにあったかだけだからです。