なぜ「やることリスト」と実際にやったことは一致しないのか
やることリストは、その日がまだ何も起きていないうちに書かれます。記録——もしつけているなら——はその日のうちか、終わった直後、すでに何が起きたか分かってから書かれます。金曜日に両方を並べてみると、たいてい一致しません。それはその一週間をどう過ごしたかの通信簿ではなく、「計画」と「記録」というものを比べれば必ず起きることです。同じ一日でも、いつ書いたかによって違う顔をしています。
リストは、いちばん何も分かっていない時点で立てた予想にすぎない
リストを書く瞬間、その日についての情報はいちばん少ない状態です。何が四分で終わり、何が四十分かかるのか分からない。誰から電話が来るかも、学校から十一時に連絡が入ることも、同僚が予定外の二十分を必要とすることも、まだ知りません。リストの一つひとつは、計画の顔をした予想でしかないのです。当たるものもあれば、少しずれるものもあり、もっと忙しい一日がその代わりにやってきて、そもそも実現しない項目もあります。それは計画の下手さではなく、その日が始まる前に確定してしまった文書と、後から違う姿を見せた現実との、ただのずれです。
チェックを付けるという行為が、いつのまにかリストを成績表に変える
厄介なのは、誰も決めていないのに、やることリストが採点システムを兼ねてしまうことです。夕方六時になってもチェックがついていない項目は、たとえその理由が——誰かを手伝った、思ったより時間がかかる問題だった、もっと大事な用事が入って正当に後回しになった——どんなに納得のいくものでも、小さな失敗のように見えてしまいます。リストにはその判断を記録する場所がなく、チェックが付いたか付いていないかしかありません。一週間分の中途半端なリストを見返すと、そこに映っているのはその週そのものではなく、未達成の一覧であり、それをその週の実像だと取り違えるのは驚くほど簡単です。
実際に起きたことを置く場所が、リストにはない
「火曜日は結局何で埋まっていたか」と聞かれて、正直な答えが「予定していた七つの用事」であることはめったにありません。早く来た配管工、四十分も話したがった友人、長引いて次の予定を押しつぶした会議、予定していなかったのに急に必要になった散歩——たいていはそういうものです。これらは前夜に書いたリストには絶対に現れません。リストは、あらかじめ予想できたことしか載せられないからです。記録にはその制限がなく、計画されていたかどうかに関係なく、その時間に実際に起きたことをただ書き留めます。数週間分をあとで見返すと、価値があるのはむしろ計画外だった記述の方だったりします。
そもそも答えている問いが違う
やることリストに「今日は何をするつもりだったか」と聞けば正確に答えてくれます。でも「今日は実際に何があったか」と聞いても答えられません。それはリストの仕事ではなかったからです——その日が予定通りに進まなくなった瞬間から、リストの更新は止まっています。記録はその二つ目の問いに答えるためのもので、一つ目の問いには何も言えません。何をするつもりだったかには興味がなく、実際に何をしたかしか書かないのです。どちらが優れているという話ではなく、二つはそもそも別の日を指しています——前の晩に想像していた一日と、実際にやってきた一日です。
二つを別々に持っておく
朝はやることリストを書き、夜には記録に近いものを書く、という人は少なくありません。二つが一致する必要はどこにもありません。リストはリストで役に立ち続けます——次に何をするか決めるのに、これほど便利なものはありません。ただ、一日が終わったあとにその日の記録として扱うのはやめていい、というだけの話です。もともとそのための道具ではなかったのですから。一日の終わりに書く一、二行——予定していたことではなく、実際に起きたこと——は、まったく別の文書であり、その日について、たいてい正直です。
TimeMapが作っているのはその二つ目の文書であり、一つ目ではありません。タスクリストは持たず、チェックを付ける対象もありません。何かが実際に起きたあとに書く一行のための場所で、色をつけ、時刻は自動で記録されます。数週間後に見返せば、その日が本来どうあるべきだったかではなく、実際にどんな一日だったかが見えてきます。
リストと実際の一日との差は、埋めるべきものではありません。それは「計画」と「生活」という、もともと別物の二つの文書の間にある差であり、数か月後にその週が実際どんなものだったかを教えてくれるのは、そのうちの一つだけです。