時間管理アプリで罪悪感が生まれるのはなぜか
夜になってアプリを開くと、今日の棒グラフが妙に短い。起きていた時間はもっと長いはずなのに、記録はそれより明らかに少ない。特に何か悪いことをしたわけではなく、ただ何度か記録し忘れただけです。それでもそこに生まれる感じの悪さは具体的で、メールを一本返し忘れたときとは違う種類のものです。これは意志の弱さではなく、合計という仕組みそのものが持っている副作用です。仕組みを知れば、責める必要がなくなります。
罪悪感は計算式が作っている
計測された合計は、その日が実際どれくらいの長さだったかと比べて初めて意味を持ちます。明らかに十時間起きていた日に、記録が五時間しかなければ、その五時間は中立な情報ではありません。名前のない残りの時間と並んで置かれることになり、名前のない部分は頭の中で勝手に埋められます。たいていは好意的にではなく、サボった、忘れた、だらしなかった、という方向に埋まります。
実際には、その埋まっていない時間には長引いた打ち合わせがあったかもしれないし、記録を忘れるほど集中していた作業があったかもしれないし、単に誰かと話していたり、料理をしていたり、ぼんやり窓の外を見ていただけかもしれません。計測型のアプリには「何かをしていたが、測らなかった」という形式が存在しません。あるのは数字と、もっと大きくなり得た数字との差だけで、罪悪感はその差の中に住んでいます。
同じ仕組みが、形を変えて何度も出てくる
棒グラフに空白があると、判断する前に目がまずその形を捉えます。抜けている、という感覚は、それについて考えるより先に立ち上がります。連続記録の日数や週の合計も、同じことを長い時間軸でやっています。静かで落ち着いた一週間が、説明を求められる対象に変わってしまいます。
空白を埋めようとして、あとから「たぶん一時間半くらい」と記憶で入力することもあります。入力しているそのときに、自分でもそれが推測だと分かっています。信じていない数字で埋めても罪悪感は消えず、「抜けがある」から「抜けがあって、しかもごまかした」に移動するだけです。こちらのほうが重く、結局アプリを開かなくなる本当の理由は、たいていここにあります。
一行の記録には分母がない
書き残した一行は、その日がどれくらいの長さだったかと比べられません。もともと一日全体を覆うつもりで書かれていないからです。「昼、田中さんと。転職を考えていると言っていた」は何かの何パーセントでもなく、それ単体で成立しています。届くべき合計がないので、届かなかったことを気にする必要もありません。
これは見た目の違いではなく、記録が計測より長く続く本当の理由です。分母を取り除くと、罪悪感を作っていた仕組みそのものが取り除かれます。罪悪感の正体は、抜けた数分そのものではなく、すべての時間の行き先を知ろうとする仕組みが、答えられなかったときだけ静かに減点してくることだったからです。
すでに何個かのアプリを使わなくなっている人へ
何も借りは残っていません。もともと、そんな貸し借りは存在しなかったからです。ホーム画面の奥に眠っている計測アプリは、意志の弱さの証拠ではなく、普通の火曜日を普通に過ごしただけで罪悪感を覚えるように、最初からそう作られていた道具です。もう一度試すなら、いちばん効果のある変更は、記録に一日全体の説明を求めるのをやめることです。何か書く価値があったときだけ一行書き、それ以外は単に存在しないままにしておきます。完全さを約束していない記録は、完全でなかったことを咎められません。
TimeMapについて
TimeMapはこの仕組みを取り除く方向で作られています。一行のテキストと時刻とカテゴリの色を残すだけで、合計も、達成率も、昨日との比較も出てきません。三行だけの静かな午後も、十五行の忙しい午後も、それぞれがそのままの形で成立し、どちらかがどちらかの不足になることはありません。
あの感じの悪さは、実のところ午後そのものについてではありませんでした。満たされることを期待していた棒グラフについてのものです。その棒グラフを取り除けば、午後はただ起きたことになります。