なぜ音楽の再生履歴は、その一年がどんな年だったかを教えてくれないのか
毎年恒例の音楽まとめは、いつも同じやり方で作られる。数えるのだ。もっとも再生した曲、もっとも聴いたアーティスト、合計時間——すべて回数の多い順に並ぶ。まとめが届くと、なぜか少し拍子抜けすることがある。1位の曲は、自分がなぜそれを選んで聴いていたのか思い出せず、これといった記憶にも結びついていない。一方で、その年の中心と呼べる、あの一度きりの午後にかかっていた曲は、リストにすら入っていない。まとめは間違っていない。ただ、別のものを測っているだけだ。
再生回数と、意味のある一年は、別の物差しで測られている
再生履歴が答えるのは「何をいちばん多く再生したか」であり、これは繰り返しについての問いであって、重要さについての問いではない。ある曲が年間1位になるのは、自分でもよく分かっていない何かをやり過ごすために三週間ずっとリピートしていたからかもしれないし、車に乗るたびに子どもがせがむ一曲だからかもしれないし、あるいはただアプリが次に流しただけで、ろくに聴いてすらいなかったのかもしれない。どの場合も、その曲が本当に大切だった必要はない。一方で、その一年の感触を決めたたった一度の夕食、たった一度のドライブ、たった一度の夜にかかっていた曲は、たった一回しか再生されていないかもしれない。回数を基準にした順位にとって、一回は、ほぼ存在しないのと同じだ。
まとめは「なぜ」を覚えていない
たとえ両者が一致していたとしても——本当に大切だったからこそ繰り返し聴いていたとしても——まとめはその理由までは教えてくれない。覚えているのは回数だけで、理由ではない。一年後にこの順位表を見返しても、数字はそこにあるままだが、その曲がリピート必須になったときに何が起きていたのかは、すでに忘れかけている。頻度を意味あるものにしていた文脈は、どこにも記録されていない。記録されたのは頻度そのものだけだ。
気づかないうちに作られていることが、そのまま限界になる
音楽の年間まとめがどこか魔法めいて感じられるのは、自分では何もしなくていいからだ。その一年を生きているあいだに、裏側で勝手に積み上がっていく。これは確かに便利だが、まさにそのせいで、その一年が何についてのものだったかは教えてくれない。自分が意識せずに集まったものは、自分が気づいたことではなく、アルゴリズムが差し出したものを映しているにすぎない。それを本当に記録と呼べるものにするには、ソフトウェアではなく自分自身が「これは書き留める価値がある」と判断する瞬間が、どこかに必要になる。
自分で書いた一行が、再生回数には残せないものを残す
だからといって年間まとめが悪いわけではない。その一年についての、ちょっと楽しい豆知識のようなものであり、それ自体は素直に楽しい。ただ、それは一年の記録ではない。自分が何に気づいたかを見ようとする仕組みでは、そもそもないからだ。もうひとつ別の種類の記録——その日その日に、自分の手で何をしていたか一行書き残す記録——は、まったく逆の場所から始まる。それが存在するのは、自分が「一文書く価値がある」と思ったからであり、だから頻度ではなく意味のほうに偏る。二度と繰り返されなかったあの一度きりの午後も、何度も繰り返されたふつうの一週間も、同じように受け止めてくれる。
TimeMap が残しているのは、この後者の記録だ。いま何をしていたかを一行書き、色をつけて、日付とともに保存する。再生回数もなければ、順位もなく、何が「カウントされるか」をアルゴリズムが代わりに決めることもない。あとから見返せば、カレンダーとして、よく使った言葉の集計として、二つの時期を並べた形として、あるいは自分自身のタグを巡るメモリースフィアとして受け取れる。どれも、何かが起きた回数では並んでいない。当時の自分が実際に書き留める価値があると思ったことで、並んでいる。
まとめはいつでも、何がいちばん多く再生されたかを教えてくれる。だが、その一年が実際にどんな年だったかを教えてくれるのは、自分で残した記録だけだ。