ひとりの時間は足りているのか、どうすればわかるのか
その疑いは、一日のほとんどの場面に誰かがいた日の終わりにやってくる——電話、頼まれごと、誰かと囲む食事、自分では選んでいない予定。横になる頃には、それは「もう自分の時間なんて残っていない」という、かなり断定的な言葉になっている。奇妙な断定だ。なぜなら、それを照らし合わせる相手がほとんど存在しないから。誰も「その日に誰もいなかった日数」を数えてはいないので、この感覚はただ一人で立っていることになる。
ひとりの時間が、なぜこれほど正確に思い出しにくいのか
誰かと過ごした夜は、たいてい小さな物語になる——どこへ行ったか、誰が何を言ったか、どう終わったか。物語というのは、記憶がいちばん得意とする形だ。うまくいった一人の夜は、たいてい何にもならない。誰かに話す必要のあることが何も起きなかったので、記憶もその日付の下に何かをしまい込む理由がない。二週間後に「自分ひとりだった夜が何回あったか」と自分に聞いてみると、たいてい実際より少なく数えてしまう。理由は、苦もなく毎回の食事会を挙げられるのと同じだ。食事会は物語を残し、静かな夜は何も残さない。
一時的な波なのか、日々の形そのものが変わったのか
同じ不満を生む、まったく別の二つの状況を分けておく価値がある。一つは一時的な波——締め切り、数日泊まりに来る親戚、その週たまたま体調を崩した子ども——原因がはっきりしていて、終わりも見えている。もう一つは、誰も決めたわけではないのに、いつの間にか定着してしまった日々の形だ。常に連絡が取れることを前提にする仕事、毎晩当たり前のように誰かと過ごす家、始めた理由すら忘れたのに続けている「はい」という返事。一時的な波なら、たいてい必要なのは辛抱だけだ。定着した形には、実際に何かを変えることが必要になる。ところが、うるさい一週間の内側から見ると、このどちらも同じに感じられる。だからこそ、その一週間だけでは、自分がどちらにいるのか判断できない。
ふだんの記録が、記憶の代わりに教えてくれること
その場で書いた一行は、その瞬間がどう感じられたかを気にしない。それこそが、ここで役に立つ理由だ。誰の予定も入っていない、本当に自分だけの時間だった日に、専用のカテゴリーを数週間つけてみる。一か月分たまると、その記録は記憶がいつも間違える問いに答えてくれる——慌ただしい期間がどれだけうるさく感じられたかではなく、実際に誰もいなかった日が何日あったか、という問いだ。大変だった月と楽だった月を並べて、それぞれが残した印象ではなく、正直な数字のほうを読む。数字が感覚と一致することもある。誰かにすべて占められたと感じていた一週間を開いてみたら、静かに、何事もなく自分だけで過ごした日が二、三日あったと分かることもある——それ単体では覚えていられないほど地味だが、確かに起きていた日だ。
これでは分からないこと
日数を数えるだけでは、そのひとりの時間が本当に回復になったのか、それともただ空っぽだったのかは分からない。この二つは紙の上ではまったく同じに見えることがあり、それを見分けられるのは、その一行を読み返した本人くらいのものだ。どれくらいのひとりの時間があれば十分かについても、記録は何も言ってくれない。その基準は人によって違い、人生の時期によっても変わるもので、どんな記録も代わりに答えを出してはくれない。記録が答えてくれる範囲はもっと狭いが、それでも役に立つ——誰の予定も入っていない日が、増えているのか、減っているのか、それともずっと同じくらいなのか。これこそ、疲れきった一週間だけでは見通せない部分だ。
TimeMapについて
TimeMapは、何が「自分の時間」にあたるかを代わりに決めたりはしない。書いた一行と、選んだ色を、そのまま保存するだけだ。自分だけの夜に専用のカテゴリーをつけて数週間過ごせば、特別な手間をかけずに、その期間に誰の予定も入っていなかった日が実際どれくらいあったかという、正直な数字が手元に残る。あの疑いがまた浮かんだときに、いつでも別の期間と並べて見比べられる。