好きなことをする時間がまったくないと感じるのはなぜか
それが何かは即座に言えます。読みかけのまま置いてある本、弾かなくなったギター、会おうと言い続けてまだ会えていない友人。そして同じくらいの確信を持って、時間がなかったとも言えます。何週間もそうやって過ぎていきます。その言い訳は一度も変わらず、一度も検証されません。検証するには、自分でも細部をよく覚えていない週をわざわざ振り返る必要があるからです。
「時間がない」は感覚であって、計測ではない
誰も計算のすえに「これをやる時間がない」と結論づけるわけではありません。それは気分が代わりに出す結論で、たいてい一日の終わり、またその物事ができなかったあとにやってきます。そして気分は計算がへたです。内側から見れば息つく暇もなかったはずの一日でも、記録を見返すと、空いていた時間の量自体はごく普通だったりします。ただ、そのどれもギターのそばには落ちてこなかった――届いたときにはもう、何かを始めるための余力が残っていなかっただけです。その感覚自体は本物ですが、実際に計っているのは自由時間の量とは違う何かで、報告されるときだけそれが自由時間の量にすり替わっているのです。
実際、時間はどこへ行ったのか
正直なところ、実際に見てみると「一日が端から端まで埋まっていた」ことは意外と少ないものです。近いのはむしろ「その日には隙間があり、その隙間が一番始めるのに苦労しない何かへ流れた」という状況です。すでに読み込み済みのドラマ、すでに開いたままのフィード――劇的なことは何も起きていません。「今夜何に時間を奪われたか」と聞かれても、はっきり犯人を指させないくらいです。こうした低コストな既定の選択肢は、自分で選んだという顔をしないからこそ、多少の踏み出す力が要るものに、たとえそれをやり始めれば実際好きだとしても、勝ってしまいます。ギターが負けたのは忙しさにではなく、隙間が開いた瞬間、あなたに何も求めてこないものに負けたのです。
記憶は、あなたがすでに信じている話に味方する
この言い訳がずっと生き延びる理由がここにあります。思い出して確かめようとしても、記憶はあなたがすでに疑っている方の話に、喜んで加担するのです。その週は詰まりすぎていたと決めてかかれば、記憶はいちばん過酷だった火曜日を引っ張り出し、残りの平凡な三晩を「たぶんあれも忙しかった」と静かに一緒くたにしてしまいます。ここでの記憶は中立な証人ではありません。求められるたびに再構成され、しかもより気まずくない結論の方向へ再構成されがちです。「時間がなかった」は、「時間はあったのに、別の何かに手を伸ばした」よりずっと受け入れやすいのです。
淡々とした記録が代わりに見せてくれるもの
書かれた一行は、あなたがどちらの話を確かめたいのか知りません。それこそが、ここで役に立つ理由です。数週間分の記録を読み返すと、夜は空だったことはほとんどありません。何かで埋まっていた――ただ、その何かがあなたの思っていたものとは違っただけです。パターンはたいてい早く見えてきます。六週間でギターは二回しか出てこず、しかもその二回はどちらも、普段なら画面へ滑り落ちていくはずの流れを何かが先に断ち切った夜でした。これはギターへの関心が薄いことの証拠ではありません。実際にどの夜が余地を残しているかについての事実であり、「時間がまったくない」よりもずっと使い道のある情報です。実際に行動へつなげられるからです。
これは生産性の話ではありません
ここまでの話は、夜の予定をもっと最適化しろとか、時間の使い方についてもっと悪く感じろという主張ではありません。パターンを読み返す目的は、ギターの時間を予定表に組み込んで自分に守らせることではありません――それはたいてい、好きだったはずのことを、また一つ失敗しうる項目に変えてしまうだけです。ただ目的は、「自分には何をする時間もない」という漠然とした罪悪感まじりの思い込みを、「ジムのあとの木曜はたいてい空いているが、月曜は一度もない」という具体的で、ほとんど評価を含まない事実に置き換えることです。後者は実際に使えます。前者はただ持ち歩いているだけのものです。
TimeMapについて
TimeMapは、その夜に実際に何をしていたかを、一行、時刻、カテゴリの色として残します。評価の欄はなく、ある夜を「充実していた」「無駄だった」と採点する仕組みもありません。一か月分読み返せば、パターンはあなた自身の言葉のまま、そこに置かれています――どの夜に余地があったのか、そしてその余地が実際には何に使われていたのか、本来やりたかったことの代わりに。好きなことをする時間がないと言ってくることはありません。代わりに、その隙間で実際に何が起きていたのかを、淡々と教えてくれます。そちらのほうがたいてい役に立ち、気も滅入りません。
ギターはおそらく、最初から「まったく時間がない」という状況に阻まれていたわけではありません。ある特定の種類の隙間を待ち続けていて、その隙間は今も繰り返し訪れては、そのたびに別の何かへ流れていっただけです。それが感覚のままではなく文字として残ったとき、それはもう自分の性格をめぐる謎ではなくなり、自分の木曜日についての一つの事実になります。