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子どもが生まれる前と後、生活をどう比べればいいか

子どもが生まれてから何が変わったかと聞かれても、正直なところよくわからない。基準にしている「前」はもう一年も前の記憶で、角が取れて丸くなっているし、いま生きている「後」はまだ新生児期で、この先どの時期とも似ていないからだ。比べているのは二つの生活ではない。懐かしさで美化された記憶と、いまだけの非常事態であり、どちらも本当に知りたかったこととは違う。

新生児期の数週間は、何の基準にもならない

最初の数か月は確かに本物だが、それ自体以外の何かを代表することはない。眠りは細切れになり、昼と夜の境目はあいまいになり、形の見えないまま一週間が過ぎていく。この時期を以前の生活と比べれば、答えはいつも同じになる——すべてが悪くなった、何をするにも時間がかかる、以前と同じものは何もない。その答えは事実だが、役には立たない。非常事態と日常のリズムを比べているだけだからだ。この二つが似るはずはもとよりなく、その差は、非常事態が終わったあと——実際いつか終わる——生活がどう落ち着くのかについて、ほとんど何も教えてくれない。

「前」はすでに二度、書き換えられている

子どもが生まれるずっと前から、期待という感情はすでにその前の数か月の記憶を静かに作り変え始めている。何でもない火曜の夜が、後から思えば「最後の何か」として語り直され、当時は感じていなかったはずの尊さを帯びる。あの生活にあった普通の摩擦——退屈さや、些細なことでの言い合い、目的もなく過ぎた夜——は、物語からいつの間にか消えていく。いまの物語は「何を失ったか」についてのものであり、退屈さはその物語には似合わないからだ。そして今度は疲労が反対側から編集を加え、単に睡眠が多かったというだけの理由で、以前の生活を実際より楽そうに見せる。実際に比べようとするころには、「前」はもう記憶ではなくなっている。記憶の形をした、ある種の気分になっている。

記憶には見えないものが、記録には見える

そのとき書いた記録は、誰かの「前」になろうとして書かれたわけではない。ただ、何気ない夜に実際あったことを書いているだけだ。何時に夕食を食べたか、誰と話したか、そのあと何をしたか、疲れていたのは理由があったからか、それとも特に理由もなくだったか。数か月後にそのまま読み返せば、美化された版にも、恨みがましい版にも同調しない。意外な発見もある。いまは「何の苦労もなかった」と記憶している夜にも、実はそれなりの小さな摩擦があったと、子どもが来ることなど知る由もなく、何かを証明しようともしていなかった当時の自分が、そのまま書き残している。それは一つの感覚よりも重みがある。もともと何かを証明しようとしていなかったからだ。

何を並べて見ればいいか

本当に何かを教えてくれる比較は、待って初めて成り立つものであり、しかも二つの時代全体を代表させるための極端な例ではなく、性質の似た二つの期間を選ぶことだ。

  • 最初の数か月はまるごと飛ばす。この時期は比較できる意味での「後」ではない。それ自体で完結した別の出来事として、それ自体の形のまま記憶しておく価値があり、この先の生活を占うためのデータにする必要はない。
  • 反対側にも、何気ない一週間が現れるのを待つ。夜に多少なりとも形が戻ってきたら、それが比較すべき週だ。いちばん穏やかな週を探す必要はなく、ただ普通の、典型的な一週間でいい。
  • 比べる相手は、妊娠末期ではなく、ずっと前の何気ない週にする。出産を待つ最後の時期も、それ自体が特殊な状態だ。一年か二年前の、何でもない火曜日のほうが、公平な比較相手になる。
  • 何が消えたかだけでなく、その空間に何が入ってきたかを読む。「自由な時間が減った」だけでは具体的とは言えない。もともと空いていた時間に実際いま何が起きているか、そして意外にも、ほぼ元の形のまま残っているものは何か——それをじっくり読む価値がある。

実際によく見えてくるもの、そしてそれが自分の話す物語と一致しない理由

二つの週を並べて読むと、どちらの物語が想定するような、きれいな前後対比にはめったにならない。子どもに奪われたはずのものが、実はまだそこにあり、ただ時間帯が変わったり、小さな形に縮んだりしているだけのこともある——本を読むこと、誰かと話すこと、散歩すること。消えたのではなく、こっそり予定が変わっただけだ。逆に、そのまま残ると思っていたものが、子どもとは関係のない理由で、実は何週間も前にひっそり終わっていたこともある。そして、いちばん素朴な発見がいちばん的確なこともある。いまのある普通の夜と、以前のある普通の夜が、どちらの物語が認めるよりもずっと似ていて、違うのはたった一行だけ——その一行は一年前には存在しえなかったものだ。何気ない一日に紛れ込んだその一行こそ、食事の席で話す「大変だったかどうか」という話よりも、たいてい多くを語ってくれる。

TimeMapは、後になってある気分に合わせて書いた要約ではなく、そのとき書いた短い記録として一日一日を残す。だから以前のある何気ない週も、いまのある何気ない週も、当時実際に書いた言葉のまま残っている。それを並べて読めば、「もう何もかも違う」という感覚は、実際に確かめられるものに変わる。

新生児期の数週間は、良くも悪くも、いちばん鮮明に覚えている部分であり続けるだろう。書き残す価値があるのは、その前後にある何気ない週のほうだ。まだ何が来るか知らなかったころの何気ない一週間と、もう目新しくなくなったころの何気ない一週間。本当に何が変わったのかを教えてくれるのは、この二つの週だ。