TimeMap

TimeMap / ガイド

なぜ趣味の時間を測ると、それが仕事のように感じられてしまうのか

夕食前に、なんとなくギターを手に取る。二十分ほど。誰も見ていないし、締め切りもない。それだけで十分気持ちのいい時間だった。あるとき、上達しているか確かめる手がかりになりそうだからと、練習時間を記録し始める。一か月後、ギターはあいかわらずほぼ毎晩手に取っているのに、何かがうまく言葉にできない形で変わっている。弾いてはいる。ただ、頭のどこかで数字が積み上がっていくのを見ていて、ギターを手に取る前から、その二十分にはもう「結果」がついてまわっている。

タイマーは「楽しかったか」を「数字を達成したか」にすり替える

記録を始める前、その日の練習が答えるべき問いはひとつだけだった――弾きたい気分かどうか。記録を始めたとたん、頼んでもいない二つ目の問いが現れる。今夜の合計は先週と比べてどうか。この問いは以前は存在しなかったし、気にしたくないからといって消えてくれるわけでもない。合計が一度存在してしまえば、それを確認するのはほとんど反射になり、確認した瞬間、今夜の二十分は、弾いた感触とは何の関係もない数字と比べられてしまっている。

奇妙なのは、ギター自体は何も変わっていないということだ。弦は同じ弦だし、曲も同じ曲だ。変わったのは、その練習が頼んでもいない二つ目の物差しで測られるようになったことで、いったん測る仕組みが現れると、弾くほうを優先したいと思っても、それだけではなかなか止められない。

自分で選んだはずの数字が、いつの間にかこちらを選ぶようになる

守るべき合計ができると、誰も決めたつもりのない置き換えが静かに起こる。目的が「ギターを弾く」から「ギターの時間を記録する」へとすり替わっていく。似ているようで別物だ。合計というのは、楽しかったかどうかとは無関係な形でも稼げてしまうからだ。すでに弾き慣れた曲を、時計をちらちら見ながらぼんやりなぞっているだけでも、難しい新しいことに本気で取り組んだときと同じだけ数字は増える。タイマーにはその違いが分からない。しばらくすると、自分にも分からなくなる――実際に管理しているのはその数字で、弾くことはそれを生み出す手段になっていく。

これは趣味だけの話ではなく、「測ること」がもたらす作用の話

もともと楽しくてやっていたことに外部の数字を課すと、その数字が静かに「なぜやっているのか」の座を乗っ取り、それまでの理由を押しのけてしまう傾向がある。これは意志の弱さでも性格の欠陥でもなく、スコアボードがついたあらゆる物事に起きがちなことに近い。スコアボードはその物事自体より考えやすい。上下する一つの数値だからだ。そして頭は、考えやすいほうへと流れていく。趣味はしばらくのあいだそれに耐えるが、やがて多くの人が、かつて心待ちにしていたはずのことを避けるようになっている自分に気づく。その避け方が始まるのは、たいてい、物事そのものではなく数字のほうを実際に管理し始めた頃だ。

「どれだけの時間」という問いが、静かに最適化を求めているもの

タイマーが投げかける具体的な問い――これにどれだけかかったか――は、多くの物事にとっては妥当な問いだ。しかし、好きでやっていることに向けるには、少し奇妙な問いになる。楽しさにとって、時間の長さはそもそも重要ではなかったからだ。誰もギターを手に取るとき、経過時間を最大化したくて手に取るわけではない。次の二十分が何かしら感じられるものになってほしくて手に取る。ところがタイマーが動いていると、測られているのは経過時間だけになり、あとから良かったか悪かったかを判断できる材料もそれだけになる。以前は「楽しくなくなったら終わり」だった趣味が、いつしか「数字が来たら終わり」になる。楽しさが十分前に消えていようと、まだ濃く残っていようと関係なく。

ログには、達成すべき数字も、届かなかった数字もない

「今夜はギター、あの曲のブリッジ部分に取り組んだ、コード進行はまだぎこちない」と書く。この一文は何とも競合しない。その下に超えるべき合計が控えているわけではないので、練習の途中で確認する必要も、今夜が昨夜より短かったからといって足りないと感じる必要もない。この一文はただ何が起きたかを述べているだけで、散歩や電話について書くのと変わらない。何かの傾向を作る一つのデータ点として、静かに採点されているわけではなく、その晩についてのひとつの事実にすぎない。

これが大事なのは、合計というものが表計算にとっては重要でも、それ以外のほとんどのものにとってはさほど重要ではないのと同じ理由からだ。趣味はもともと目標のあるプロジェクトではなかった。それに目標を課すと、本来なら無縁だったはずの種類の重さを持ち込んでしまう。何をしたか、だいたいどんな具合だったかを書き残すことは、その記録だけを残し、下にスコアボードを敷かずに済む。

  • どれだけの時間ではなく、何をしたかを書く。「ブリッジ部分を練習した、まだ乱れている」は、時間の長さよりもその練習について多くを語ってくれるし、先週の時間との比較も誘わない。
  • 時計のほうを見ていないか確かめる。それは、趣味が「そのために好きでやること」から「維持すべき合計」へと静かに変わってしまった瞬間であることが多い。
  • 短い回も長い回も、同じだけ数える。気もそぞろな十分と、夢中になった四十分はまったく違う経験で、長さだけではその違いは分からない。そして、また明日やりたいと思わせるのはそのうちの片方だけだ。
  • 上達したかどうかを知りたいなら、経過した時間ではなく、変わったことを書く。「あのコード進行が、ようやく止まらずにできた」は上達の証拠になる。タイマーの数字が増えたこと自体は、それだけでは何の証拠にもならない。

TimeMapについて

TimeMapは、何にどれだけ時間がかかったかを尋ねない。「ギターを練習、ブリッジ部分に取り組んだ、まだぎこちない」と一行書いて色をつけるだけで、裏で合計を積み上げて管理させられるような仕組みは何も動いていない。あとから見返すと、「ギター」という一連の記録を並べたときに見えてくるのは、そのあいだに実際に何が変わったかであって、演奏そのものについて多くを語らない分の合計ではない。

趣味が「やりたいこと」ではなく「維持しなければならないもの」に感じられ始めたなら、どこかで数字が紛れ込んでいないか確かめてみる価値がある。たいていの趣味は、もともと楽しさに不足していたわけではない。いつの間にか、測られるものという副業を背負わされていただけで、その副業こそ、たいてい手放して構わない部分だ。