ログのカテゴリーは、なぜ生活に合わなくなっていくのか
最初の日にいくつかカテゴリーを決めて、しばらくはそれで何も考えずに済んでいた。一行書いて、色をつけて、それで終わり。ところがいつからか、はっきりした瞬間もないまま、そのうちのひとつが妙にしっくりこなくなる。「フリーランス」はここ三か月で一件しか記録がない。「健康」はいつのまにか、仕事以外のほとんど何でも放り込む場所になっている。かつてはぴったり合っていたカテゴリーが、いまでは一年前の生活を説明するものになっている。
カテゴリーはある瞬間の写し絵であって、勝手に更新される入れ物ではない
カテゴリーを決めたとき、実際に書き留めていたのはその週の生活そのものだった――どの取引先と仕事をしていたか、どのスポーツをしていたか、生活のどの部分がいちばん色を占めていたか。カテゴリーは、何でも入れられる中立の箱として最初から存在しているわけではない。それは、書いた瞬間に固定された、ごく小さな記述にすぎない。生活はそのあとも動き続けるが、カテゴリーというラベル自体には、一緒に動いていく仕組みはどこにもない。だから合わなくなっていくのは、何かが間違っていたサインではない。動かないラベルが、決して止まらない生活の隣に置かれている限り、当然起きることだ。
これはあえてはっきり言っておく価値がある。カテゴリーが古びてきたと気づいたとき、最初の設定が悪かったのだと感じがちだからだ。そんなことはない。あのとき書いたのは、そのときの本当のことだった。ラベルのほうが、更新し続けると約束したことなど一度もなく、そもそもどんなラベルにもそれはできない。
ずれはたいてい三つの形で表に出てくる
それはめったに自分から名乗り出てこない。一日単位ではなく、数か月をまとめてふと振り返ったときに、次のようないくつかの静かなパターンとして見えてくる。
- 細くなっていくカテゴリー。その取引先とはもう仕事をしていない、その講座は終わった、あのスポーツは冬に一度やめたきり再開していない――それでもカテゴリーはリストに残っていて、選べるけれどほとんど何も入ってこない。間違っているわけではない。すでに終わった一章のことを語っているだけだ。
- すべてを飲み込んでいくカテゴリー。どこに分類していいかわからないものが、いつのまにか「その他一式」のような響きのカテゴリーに吸い込まれていき、気づけば集計のなかで一番大きな帯になっているのに、いちばん情報量の少ない帯にもなっている――名前はカテゴリーでも、中身は雑多な寄せ集めだ。
- 気づかないうちに二つに分かれているカテゴリー。生活のなかにまったく性質の違う「仕事」がもうひとつ増えているのに、習慣でずっと同じ「仕事」というカテゴリーに記録し続けている。集計上はひとつの大きな帯に見えるが、実際にはそこに違う二つの筋が絡み合ったまま入っている。
空になった帯は、失敗の証拠ではない
ほとんど空になったカテゴリーを見ると、「このことから手を離してしまった」という読み方をしたくなる――本当はずっと続けるつもりだった、仕事を受け続けるつもりだった、あの人たちとの付き合いを保つつもりだった、そして細い帯がその証拠に見える。それはありうる読み方のひとつではあるが、唯一の読み方ではないし、最初に選ぶべき読み方でもないことが多い。
静かになったカテゴリーは、同時に、生活の中で何かが変わったという事実を、ただ率直に教えてくれてもいる。それが気づく価値のある喪失であることもある。同時に、自分でもはっきりとは意識していなかった安堵であることもある――離れていった取引先はちょうど扱いにくい相手だった、やめた講座は実はずっと楽しくなかった、そしてその細い帯こそ、自分ではとっくに決めていたはずの変化を、初めてはっきりとした形で見せてくれている証拠だったりする。どちらであっても、その帯は判決ではない。ある変化についての事実であり、事実は判断する前に、まず読む価値がある。
改名するか、引退させるか、そのままにしておくか
三つのずれのパターンのどれも、実のところ直す必要は必ずしもない。それでも整理したいなら、選択肢は思っているよりずっと軽い。
改名は、これから先のラベルを変えるだけで、そのラベルの下ですでに起きたことを書き換えるわけではない。「フリーランス」がいつのまにか「コンサルティング」になっていたなら、カテゴリー名を変えて構わない。過去の記録の意味は変わらない。記憶を運んでいるのはカテゴリーの色ではなく、一行一行に書いた言葉そのものだからだ。改名を避けたほうがいいのは、新しい名前が過去の記録の読み方をあとで誤らせてしまう、まれなケースだけ――「フリーランス」と「コンサルティング」を、本当は別のものとして区別しておきたい場合だ。
引退させるのはさらに単純で、これから選ばなければそれで終わりだ。片づける作業は何もいらない。過去の記録はそのままの場所に残り、そのまま本当で、そのまま読める。ただその色が、新しい行にはもう出てこなくなるだけだ。記録そのもののなかに始まりと終わりが見えるカテゴリーは、静かに削除されて跡形もなく消えるカテゴリーより、ずっと多くのことを教えてくれる。
何もしないことが正解であることも多い、特に細くなっていくタイプのカテゴリーについては。三か月に一件しか記録がないというのは、雑然とした状態ではなく、かつて生活の一部だったものが、いまはもうそうではないという、いちばんはっきりした証拠だ。そしてそれこそ、ログが気づかせてくれるべきことのひとつでもある。
TimeMapについて
TimeMapには最初から小さな色分けのカテゴリーが用意されていて、生活が実際に変わったときに合わせて、追加したり、改名したり、引退させたりできる。一年後にもそのまま通用するような分類体系を、最初にすべて予測しておく必要はない。カテゴリーのその後がどうなっても、行のなかに書いた言葉自体は変わらないので、改名が自分の過去をこっそり書き換えてしまうことはない。
あるカテゴリーが少しずつ合わなくなっていくのは、こなすべき整理の作業ではない。むしろもうひとつの、もっと静かな記録のようなものだ――言葉ではなく、ある色がどれくらい出てくるか、あるいは出てこなくなるかというかたちで、自分では気づく余裕がなかった数か月のあいだに、すでに起きていた変化として残っている。