なぜ去年より今のほうが疲れていると感じるのか
午後、三回目のあくびをしたあたりで、その考えがひとりでに浮かびます。前はこんなふうじゃなかった、と。去年も会議の数はだいたい同じで、通勤時間も変わらず、抱えていた問題はむしろ今より厄介だったかもしれない。それなのに、当時はここまでこたえていなかった気がする。この比較は妙にはっきりしています。でも、その確信が実際どこから来ているのかは、一度疑ってみる価値があります。たいていの場合、根拠になっているのは事実ではないからです。
記憶が保存しているのは要約であって、記録ではない
去年の四月のある火曜日、自分がどれくらい疲れていたか。そんな記録は誰の中にもありません。あるのは「去年の春」というおおまかな印象だけで、それは記憶に残ったわずかな断片と、あの時期が結局どう収まったかという感触から、あとで組み立てられたものです。当時どれくらい疲れていたかと自分に問うとき、記憶は答えを取り出しているのではなく、その場で、手近な材料からそれらしいものを作り出しています。疲労感はとりわけ正直に思い出しにくいものです。出来事と違って、思い出す手がかりになるものをほとんど残さないからです。
終わった一区切りの時間は、勝手に編集される
ここにもう一つの効果が重なります。終わってしまった一年は、すでに一つの物語として整えられていて、物語は圧縮されるものです。二月のへとへとだった三週間は、「大変な時期だった」というひとまとまりの言葉に折りたたまれ、起きたくなかった朝が二十一回あったという実感は消えます。その時期が結局そこそこうまく収まったなら、その結末が、そこにたどり着くまでの苦労の記憶にも色をつけます。乗り越えたという結果を覚えているぶん、当時の大変さは振り返ると実際より軽く見えてしまう。誰かが嘘をついているわけではありません。どんな時期も、生きられなくなって思い出されるだけの存在になった瞬間、自然とこうなるのです。
今年はまだ編集されていない
一方、いま比べようとしている疲れは記憶ではなく、まさに今起きていることで、整理も圧縮もされていない生の状態です。今週の寝不足の夜は、一晩ずつ個別に感じています。でも去年の夜は、いずれラベルの付いた曖昧な塊としてしか思い出せません。これは公平な勝負ではありません。生々しく進行中の体験は、たとえどちらの年が実際に自分をより消耗させたとしても、すでに整理され一段落に収まった記憶に、たいてい負けてしまいます。
実際の記録は何を示してくれるか
これはまさに、記憶を書き残したものが議論の代わりに答えを出してくれる問いです。当時の記録が残っていればの話ですが。気分の点数ではなく、書かれた文そのものを見るのです。早く寝たと書いた夜が何回あって、予定より遅くまで起きていたと書いた夜が何回あったか。週末の記録に何も予定がなかったと書いてあるものと、どこかへ出かけたと書いてあるものの比率。「へとへと」「限界」といった言葉が、去年の同じ時期と比べて最近増えているかどうか。印象を信じるのではなく実際の文を読むことで、どちらの答えであっても意味があります。記録が疲労感を裏づけるなら、それは睡眠や仕事量、あるいは一度医師に相談してもいいくらいの本当のサインであって、単なる気分のせいとして片づけるべきではありません。逆に記録が裏づけないなら、記憶が仕掛けたちょっとした錯覚を、人生の実際の変化だと思い込まずに済んだことになります。
この比較が成り立つのは、両方の年を書き残していた場合だけ
ただし、これは去年の記録がまったくない場合には遡ってできません。何も書かれていないものと感覚を照らし合わせることはできないのです。だからこそ言えるのは、今年をありのまま書き残しておく価値があるということです。来年の春、同じ考えがまた浮かんだときに、記憶が差し出してくるものよりましな手がかりが手元にあるように。
TimeMapなら、何かを測定することなくそれができます。一行のテキスト、時刻、カテゴリの色。比べたくなったら、違う時期の日々を並べて見るだけです。この比較は、どちらの時期をどれだけ鮮明に覚えているかにまったく左右されません。それこそが肝心な点です。ここで一番あてにならないのは、まさに記憶だからです。
この考えが浮かんだとき、たいていは本当に調子が落ちているわけではありません。すでに消化しきった一年と、まだ生のままの今とを比べているだけで、生のほうはほぼ必ず分が悪く見えます——照らし合わせる文が手元にあることに気づくまでは。