日記に、他人の本名を書いてもいいのか
「サラと夕食。まだ妹と話していないらしい」——自分の火曜日について、こう書くのはごく普通のことに見える。けれど書いた瞬間、それはもう自分の夜の記録だけではなくなる。サラの家族のこと、サラと妹の間の問題が、自分の名前のもとに、自分の手で、期限なく残されることになる。サラ自身は、そこに記録されることに同意していない。ほとんどの人は一日の終わりに急いで書きながら、このことに立ち止まらない。でも立ち止まる価値はある。答え次第で、その日記が結局のところ誰についての記録なのかが変わってくるからだ。
名前を書くのは、あとで見つけるため
他人の名前をそのまま書くことには、はっきりした理由がある。「友達と夕食」と書いた一行は、あとから検索しても出てこない。誰なのか、そもそも書かれていないからだ。「友達」「同僚」とばかり書かれた日記は、そのうち自分でも誰のことか分からなくなる。実際の名前を書いておいてはじめて、日記は何年か後に「この一年、この人とどれくらい会っていたか」に答えられるようになる。「あの日、何をしていたか」にしか答えられない記録とは違う。これは小さな便利さではない。日記を長く続ける価値のほとんどが、そこにかかっている。
でも他人の名前を書いた瞬間、それは自分だけの記録ではなくなる
自分の名前しか出てこない一行は、自分にしか跳ね返らない。「決めなければいけないことを、午後ずっと先延ばしにしていた」と書いても、それがどんなに情けなくても、責任を負うのは自分だけだ。でも、そこに二人目の名前が入った瞬間、その一行は二つのことを同時にやっている。自分の一日を記録することと、相手が記録されることに同意していない事実を記録することだ。「サラと夕食」なら何の問題もない。それはただ、自分がその晩どこにいたかを示しているだけだ。「サラと夕食、まだ妹と話していないらしい」はまったく別の一行になる。もう自分の晩の話ではなく、サラの家族の話になっていて、それが自分のアカウントの中に、自分の言葉で、そのまま残り続ける。
名前が必要なものと、そうでないもの
他人への言及のほとんどは、何も考えずとも無害な部類に入る。誰とランチをしたか、誰から電話があったか、行ったイベントに誰がいたか。これらはすべて自分の一日についての事実で、たまたま誰かが関わっているだけだ。名前を書くのは、まさに前の段落で言った理由のためで、あとで「今月会った人」を検索できるようにするためのものだ。もっと注意が必要なのは、量ではなく質が違う話——他人の診断結果、片方の言い分しか聞いていない喧嘩、打ち明けられた秘密、本人が話すかどうかを決めるべき決断など。これらはたまたま自分に届いた内容であって、自分についての内容ではない。それを本名つきで書き残すと、私的な日記は、他人についてのファイルに近いものになっていく。
簡単な見分け方——その一行は誰の話をしているのか
この境界線は、見た目ほど複雑ではない。その一行が描いているのは、自分がしたこと、感じたこと、気づいたことで、たまたまそこに誰かがいた、という話なのか。それとも、相手の身に起きたこと、相手についての事実で、たまたま自分がそれを知った、という話なのか。「兄と犬の散歩」は、迷わず書いていい。「兄が、仕事を辞めようか考えていると話していた」は、兄の人生の一部を、自分がその作者としてではなく、一時的に預かっているだけの話で、いつもより少し慎重さが求められる。どちらの一行も、書くこと自体が間違っているわけではない。ただ必要な配慮の度合いが違うのに、それを同じように扱ってしまうと、後者がテイクアウトの注文と同じ検索可能な日記の中に、並んで残ってしまう。
本名・下の名前だけ・呼び方——三つは同じ選択の程度違いではない
この違いが見えてくると、必要な調整はたいてい「書くか書かないか」よりずっと小さなものになる。あとで検索できるようにしたい、日常的な言及であれば、下の名前をそのまま書くことはほとんどの場合問題ない。検索できるくらい具体的で、口に出して言うのとそれほど変わらない重さしかない。一方、実際には他人の私的な事情についての一行であれば、名前よりも「兄」「ある友人」といった呼び方のほうが、その一行にふさわしいことが多い。そうしておけば、その出来事を自分の人生の一部として位置づけながら、特定の個人を検索可能なキーワードに変えてしまわずに済む。これは何かを自分から隠すためではない。あとで読み返す自分は、それが誰のことか、ちゃんと分かっている。ただ、ある人の一番つらかった時期に、恒久的に検索できるラベルを貼らないようにするためだ。
隠すかどうかの話ではなく、誰の記録なのかという話
日々の記録は、自分の人生についての記録であり、自分の側から書かれたものだ。人はそこに何度も登場するし、しかも実名でかまわない。本当にその日、その場にいたのだから。それは解決すべき問題ではなく、むしろこの記録を残しておく価値のほとんどを占めている。立ち止まって考える価値があるのは、もっと限られた場合——その一行が自分の一日の話ではなく、たまたま自分が居合わせただけの、他人の事情の話になってしまっている場合だけだ。前者は気にせず名前を書き、後者には少しだけ注意を払う。それは日記の正直さを犠牲にすることではない。むしろ、この記録が本来あるべき場所——自分の側から見た記録であって、登場する全員についてのファイルではない、という場所——に、正直でい続けるための工夫だ。
TimeMapとの関係
TimeMapは名前そのものに特別な処理を加えることはなく、書いた一行とタグを、そのままの形で保存し、あとで見つけられるようにするだけだ。それだけシンプルだからこそ、ここまで書いてきた判断は、一度きりの設定ではなく、一行ごとに自分で下し続けるものになる。アプリが保存するのは書いた内容そのものであり、他人についてどこまで書くかは、そのたびに自分次第のままだ。