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TimeMap / ガイド

日記は現在形で書くべきか、過去形で書くべきか

日記を現在形で書くべきか過去形で書くべきか、多くの人はこれを文体の好みの問題として扱う。フォントを選ぶのと同じ感覚で。だが実際はそうではない。書こうとしたときに自然に出てくる形は、たいてい別のことを教えてくれているだけだ――いま書こうとしている出来事が、実際にはどれくらい前に起きたことなのか。現在形と過去形は、同じ一文に対して等しく選べる二つの選択肢ではない。同じ瞬間を、違う距離から見たときの姿にすぎない。

これは文法の話ではなく、時間の話

待合室で同じ段落を三回読み返している――このことをまだ待合室にいる最中に書けば、「読み返している」という現在形にしかならない。診察がどうなるか、出てきたときにどんな気分でいるか、この日を覚えているかどうか、まだ何もわかっていないからだ。同じ内容を夜になって書けば、自然と過去形に変わる。そのときにはもう、診察は結果の決まった出来事になっているからだ。誰も「現在形で書こう」「過去形で書こう」と意識して決めているわけではない。決めているのはいつ書くかだけで、形はあとからついてくる。

現在形は、結末をまだ文の中に入れない

その瞬間に近いところで書いた一文は、まだ起きていない後の展開を借りてくることができない。これは制約であると同時に、その形の一番の価値でもある。「保留のまま、もう四十分」というのは、まだ何も片づいていない最中に成立する本当の文で、電話が終わったあとにまとめて書いた文章では二度と再現できない種類の細部だ。あとから書けば、その四十分は「午前中はずっと保険会社と電話していた」に圧縮されてしまい、あの具体的で、退屈で、結果のわからない一分は消えている。現在形の記録は小さくて整っていないが、だからこそ後から手を加えにくく、あとで読み返したときに信用できる。

過去形は、すでに結末を知っている

あとから書くのはこれとは違う作業で、それ自体は何もおかしくない――記録の大半はあとから書かれる。一日の中で立ち止まって書ける瞬間はそう多くないからだ。ただし引き換えに、過去形で書く人はすでに結末を知っていて、その知識が書き方に後ろから染み出してくる。ばたばたした午後もうまく収まれば、「少し慌ただしかったけれど、なんとかなった」と書かれがちになる。それ自体は嘘ではないが、「なんとかなった」の部分は結末が書かせている言葉だ。その午後の真っ最中にいた人には、まだその言葉は手元になかった。

どちらが正直というわけではなく、正直さの中身が違う

現在形のほうが後知恵に染まっていない分、より正直に見えるかもしれないが、それは過去形にとって少し不公平でもある。一日を丸ごと終えてから書いた文章には、現在形の一文にはないものがある――全体の形、あとで振り返って本当に意味があった部分とそうでなかった部分の見分けだ。現在形の断片だけでできた記録は、一分一分は正確でも、一日全体の形は見えない。過去形のまとめだけでできた記録は、形は見えても、その場の手触りが抜け落ちる。実際には多くの人が、意識しないまま両方を混ぜている――ある瞬間はその場で書き、別の瞬間は夜にまとめて書く。この混在は直すべき欠点ではない。

あとで読み返す記録にとって、これが意味すること

役に立つのは、あらかじめどちらかの形に決めておくことではなく、ある一文がどちらの形で出てきたかに気づくことだ。それが、文章自体には書かれていないことを教えてくれる――書いたとき、その瞬間からどれだけ近い距離に立っていたか。つらい一週間について書かれた現在形の断片の束と、日曜の夜にまとめて書いた過去形の一段落は、同じ七日間について書かれていても、まったく違う種類の記録になる。どちらも間違いではない。ただ、あとで「その瞬間、結末を知る前に実際どう感じていたか」を探しにいくなら、それが残っているのは現在形の一文のほうで、一日が終わって落ち着いてから書くのを待つのではなく、意識してそういう一文をいくつか書いておく価値がある。

TimeMapについて

TimeMapは、すでに終わったことをまとめ直すのではなく、いま何をしているかを一文書くための仕組みだ。その瞬間が続いている間に色と一文をつけるので、自然と一日の終わりのまとめより現在形に近いところに立てる。何にどれだけ時間がかかったかを測ることは求めておらず、ただその一文を残すだけなので、あとで読み返しても、書いたときの距離感のまま読める。

どちらの形で書きがちかは、直すべき癖ではない。実際にいつ座って書いたかを教えてくれる情報だ。その場で書いた断片と、終わってから書いたまとめ、その両方の居場所がある記録は、どちらか一方だけに決めてしまう記録より、結局は信頼できるものになる。