TimeMap

TimeMap / ガイド

一日は採点すべきか、それとも起きたことをそのまま書くべきか

一日を振り返るために作られたアプリを開くと、たいてい最初に求められるのは数字です。一から十のスライダー、五段階の表情、まだ一言も書いていないうちにタップする一回のボタン。それは筋の通った最初の一歩に感じられます。まず全体をひとことでまとめて、余裕があれば細部に進めばいい、と。ただ、その数字がいったい何のためのものなのか、そして記録がもともと残すはずだった一番大事な部分の座を、静かに奪ってはいないか、一度立ち止まって考える価値があります。

採点したくなる気持ちはどこから来るのか

振り返りを求めてくるアプリのほとんどが、同じ形をしています。折れ線グラフを描くための気分トラッカー、昨日の数字と比べるためのデータ点を欲しがる習慣アプリ、印刷された尺度をもとに設計されたセラピー用のワークシート。数字はグラフにしやすく、月平均を出しやすく、色をつけやすい。これは偶然ではありません。採点はダッシュボードが欲しがる入力です。しかし三年後、ある特定の火曜日に実際何があったかを思い出そうとしている本人が、本当に欲しいのが採点かどうかは、まったく別の話です。

もっと単純な理由もあります。数字を選ぶのに四秒、文を書くのに四十秒。長い一日の終わりには、四秒のほうが選ばれ続け、やがて記録の中に残るのは四秒でできたものだけになります。

数字が実際に残しているもの

二つの違う水曜日を思い浮かべてください。一つ目は、何週間も詰まっていたプロジェクトがようやく動き出し、夜は友人と祝杯を挙げました。二つ目は、特に何かがうまくいかなかったわけではないけれど、何もうまくいったともいえない一日でした。会議が続き、これといった夕食を食べ、疲れたからというより退屈だったから早く寝ました。正直に採点すれば、どちらも七点あたりに落ち着くかもしれません。数字は嘘をついているわけではありません。ただ、それが要約しているつもりの一日よりも、はるかに小さな何かを描写しているだけです。何が起きたかではなく、すべてを平均したあとに気分がどこに落ち着いたか、それだけです。

この「平均する」という作業こそが問題の核心です。一日は上下するひとつの量ではありません。誰と会ったか、何を終わらせたか、また先延ばしにしたこと、思いのほかうまくいった会話――そうした具体的でばらばらな出来事の連なりです。それが単一の数値に圧縮されるのは、入力欄が数値しか受け付けないからにすぎません。この圧縮は中立ではありません。れっきとした損失であり、一日が一つの数字に押し込められるたびに、その損失は毎回起きています。

描写が残すもの、採点が捨てるもの

同じ二つの水曜日を、点数ではなく文で書き比べてみます。「レイアウトのバグをようやく直した、サムと祝杯」「会議が四つ続けて何も進まなかった、退屈すぎて九時には寝た」。一年後にこの二行を読めば、その日のことがすぐに戻ってきます。誰がいたか、何が大事だったか、そこにいたときの実際の感覚まで。ところが一年後に「7」と「7」を読んでも、何も得られません。同じ数字を生んだ二つの文が、まるで似ていない一日を描写していたからです。

これが一日を採点することに対する本当の反論です。数字がどこか不正直だからではなく、書き得る文の中でもっとも情報量の少ない一文になってしまうからです。名前、出来事、それが意味を持った理由――そうした具体的なものをすべて先に捨てなければ、一日は一から十の尺度に収まりません。

尺度そのものが動いてしまう

もうひとつ問題があり、これは時間が経ってから現れます。採点は、その下にある尺度が固定されていることを前提にしています。今日の六点と来年の六点が同じ意味を持つはずだ、と。しかし実際はそうなりません。何を「ふつうの一日」とするかは、生活そのものが変わるにつれて動きます。大変な月の六点と、楽な月の六点はまったく違う基準で測られているのに、数字を選ぶその瞬間、誰もそれを調整するようには言われていません。あとで古い採点を読み返しても、それがどの基準で測られたものか知る術はありません。あとで古い描写を読み返せば、その基準の問題自体が起こりません。描写はそもそも何かを測ろうとしていなかったからです。ただ何が起きたかを述べているだけで、起きたことに再調整は必要ありません。

読み返しテスト

どんな形式であれ、公平に評価する方法は、実際に思い出したくなったずっと先の日に、それを開くところを想像してみることです。採点だけのページはひとつの形を教えてくれます。どの週が上向きで、どの週が下向きだったかというおおまかな傾向です。しかし、しがみつける具体的な何かは一つもありません。ただの描写だけのページは、その逆を教えてくれます。グラフはありませんが、どの一日もそこに座っていて、見分けがつくだけの細部を持っています。十年後にどちらを持っていたいかと聞かれたら、たいていの人は文が書かれているほうを選びます。グラフは、そもそも本当に求めていたものではなかったのです。

数字は敵ではない、ただ向いていないだけ

これは数字がどこでも悪いという話ではありません。体重、歩数、使ったお金、睡眠時間――これらは本当にひとつの量であり、数字はそれを記録する誠実で効率的な方法です。一日はひとつの量ではありません。ひとりの人間に十数時間の起きている時間のあいだに起きた、互いに無関係な出来事の集まりです。それを一度にひとつの数字しか受け付けない尺度に無理やり通すと、その日をその日たらしめていたもののほとんどが失われます。道具そのものは悪くありません。ただ、向いていないものに向けられているだけです。

採点の代わりに、何を書くか

入れ替えは見た目より小さなものです。段落を書けというのではなく、数字の代わりに細部の入った一文を書くだけです。

  • 「3/10」の代わりに:「電話で母と言い合いになり、午後はずっとそのことを考え返して仕事にならなかった」
  • 「8/10」の代わりに:「提案書を早めに終わらせて、久しぶりに公園まで歩いた」
  • 「5/10、特に何もなし」の代わりに:「いつもどおりの木曜日――買い出し、洗濯、ユキがずっと勧めていたドラマを一話」

習慣になってしまえば、これらは数字を選ぶのと同じくらいの時間しかかかりません。違うのは、あとで何が返ってくるかです。名前、場所、具体的な理由が返ってくるのか、それとも探しに戻ったときにはもう何の意味も持たなくなっている数字が返ってくるのか、その違いだけです。

TimeMapとの関わり

TimeMapには採点の項目がどこにもなく、あとから見返して何のことだったか首をかしげるような日々のスコアもありません。代わりに求めているのは、自分が何をしていたかについての一行と、自分で選んだカテゴリの色です。事実であって判決ではなく、判決の代わりを数字に務めさせることもありません。あとから何日分かを読み返すとき、目にするのは実際に起きたことであり、当日の記憶がないと解読できない一連の数字ではありません。

次にどこかのアプリが、あるいは自分自身の習慣が、一から十の尺度を差し出してきたら、数字をタップする前に一度立ち止まる価値があります。実際に起きたことを一文で書くほうが、今日は数秒よけいにかかります。しかし、あとでその日を探しに戻ったときに、まだ意味を持っているのは、そちらの一文だけです。