睡眠時間は記録に書くべきか
朝起きて記録を開き、その日最初の一行を書こうとすると、何より先に数字が浮かんでくる。7時間半、あるいは5時間、あるいは部屋が暗くなった時刻からのだいたいの見積もり。天気予報がニュースの冒頭に来るように、この数字が一日の最初に来るのは自然なことに思える。けれど、もともと「今何をしているか」という瞬間を書くための記録に、意識のなかった時間の長さをそのまま書く場所があるとは限らない。この数字を書くべきかどうかは、見た目ほど当たり前の話ではない。
睡眠だけが、本当の意味で「長さ」である
記録する価値のあることのほとんどは瞬間だ。机に向かって書き始めた、誰かから電話が来た、ジムに向かって家を出た。一日がかりの仕事でも、記録されるのは「提案書を書き始めた」という出来事であって、分数の積み重ねではない。睡眠は違う。11時間ぶっ続けの無意識を一つの瞬間として体験する人はいない。あとから正直に説明しようとすれば、ある時刻から別の時刻までの長さとして語るしかない。だからこそ睡眠は、数字を中心に作られていない記録の中で、唯一もっとも数字向きの出来事になる。数字を書くときに感じる引っかかりは、あなたのやり方が間違っているのではなく、本物の長さが、瞬間のために作られた形式に無理やり収まろうとしているだけだ。
数字だけを書いて、実際に何が手に入るか
毎朝「7.5時間」とだけ書き続けて一か月後に読み返すと、それは記憶というよりグラフ化し忘れた表のように読める。数字の羅列は、ある夜がなぜ短かったのかも、その短さが翌日に何をもたらしたのかも教えてくれない。ただ数字が下がったという事実だけが残る。そもそもウェアラブル端末を身につけているなら、より正確な数字はすでにそこに存在している。記録がその同じ数字をもう一度保存しようとするのは、別のものがすでにもっと上手にやっている仕事を、わざわざ肩代わりしているだけだ。
記録が本当に得意なこと
睡眠グラフには残せないが記録には残せることがある。「犬の世話で二回起きたが、すぐまた眠れた」「喧嘩のあと頭が冴えて眠れず、諦めて2時まで本を読んだ」「ここ数週間で一番よく眠れた夜、アラームより先に目が覚めた」。こうした一行には正確な時間数はいらないし、半年後に読み返したときも、小数点だけが並んだ列よりずっと役に立つ。長さではなく、実際に何が起きたかを語っているからだ。理由のついた「よく眠れなかった」は、理由のない良い数字より、記録として意味がある。
それでも数字を書く価値があるとき
だからといって、数字を書いてはいけないという話ではない。ある夜がひどすぎて、数字そのものが伝えたいことの中心になる場合——「午前4時まで眠れず、最悪だった」——なら、数字を入れたほうがその一行はより具体的になる。地名や人の名前を書き足すのと同じことだ。違いは、特筆すべき夜にだけ添えられる数字と、前の晩に語ることがあってもなくても毎朝欠かさず埋めなければと感じる項目になってしまった数字との間にある。前者はただのディテールであり、後者はいつの間にか自分に課してしまった指標だ。そして記録は、指標を集めるために存在しているのではない。
目覚める瞬間も、他の瞬間と同じように扱う
一番シンプルなやり方は、睡眠だけを特別なルールが要るカテゴリとして扱うのをやめ、ほかの出来事と同じように、書く価値があるときだけ書くことだ。ほとんどの朝は、睡眠のことには触れず、次に起きたことをそのまま書けばいい。何か語る価値のある朝だけ、どう目覚めたか、なぜそうだったかを一文にすればいい。どちらであっても、記録が映すのは自分の日々の実際の姿であって、何時間目を閉じられたかを積み上げた集計表ではない。
TimeMapについて
TimeMapには目標値や累計を追う「睡眠」カテゴリはない。記録するものが何であれ、睡眠であっても、長さそのものをこのアプリが追いかけることはないからだ。TimeMapが用意しているのは、目覚めたあとに書くその一行であって、内容はどんなものでもかまわない。その夜についての短い言葉、色、自分が書いた瞬間に刻まれるタイムスタンプ。ウェアラブルがすでに正確な時間数を教えてくれているなら、記録はウェアラブルにはできないこと、つまりその夜がなぜ語る価値があったのかを覚えておくことに専念できる。
「睡眠は書く価値があるのかどうか分からない」という理由で朝の一行を飛ばし続けているなら、思い出してほしい。記録はもともと数字のためのものではなかった。あとで本当に読み返したくなる一文のためのものだった。