日々の記録は色分けすべきか、それとも言葉で書くべきか
記録アプリの多くは、一行を書くのと同時にカテゴリの色を選ばせます。この二つを同じ一つの作業だと思ってしまうと、数週間後に困ったことになります。色をつけるだけでは読み返しても何も思い出せず、かといって毎回きちんと書こうとすると続かなくなる。色と言葉はそもそも別の仕事をしているのであって、どちらか一方だけでは記録として半分しか機能しません。
色が本当に担っている仕事
色は出来事そのものを記録しているわけではありません。色がやっているのは索引です。その価値は、三十日、九十日とたまってから、まとめて眺めたときにようやく出てきます。今月は先月より仕事の色が多いか。引っ越してから、平日の午後を占めていたあの色は静かに減っていないか。こうした問いには一行も読まなくても答えが出ます。色の並んだカレンダーを見た瞬間に答えが見える、というのが色の役目です。
だからこそ色を選ぶ作業は軽くなければ意味がありません。カテゴリを選ぶのに一行書くより時間がかかるなら、それはもう索引ではなく、それ自体が面倒な作業になっています。タイマーを押し忘れるのを恐れる感覚と、根っこは同じです。
色が絶対に教えてくれないこと
同じ「仕事」の色がついた二時間でも、中身はまったく違います。手応えのある仕事を進めた二時間と、メールで済んだはずの会議に出ていた二時間は、カレンダーの上では同じ色でも、過ごした本人にとっては別物です。色は分類を残しますが、その火曜日を他の火曜日と違うものにしていた部分は、そのまま消えます。一か月分の記録が色だけだったら、その月の形はわかっても、そこで実際に何が起きたかはほとんど思い出せません。
言葉が本当に担っている仕事
一行の文章はその逆をやっています。九十日分を一目で見渡すためではなく、その一つの瞬間をそのまま呼び戻すためにあります。「夕方、駅前でMに例の話をした。思ったより落ち着いていた」——これはどのカテゴリにも入りません。でも一年後にもう一度開きたくなるのは、たいていこういう一行です。名前、下した決断、誰かが言った一言は、どのカテゴリにも属さないまま、その日を他の日と違うものにしています。
言葉だけでは立ち行かなくなる理由
言葉の弱点は圧縮できないことです。三か月毎日一段落書けば、九十段落になります。九十段落をあとから読み返してパターンを探す人はほとんどいません。情報としてはそこにすべて書いてあるのに、量が多すぎて一望できず、結局埋もれたままになります。純粋な文章だけの日記が続かなくなる本当の理由は、書くこと自体がつらいからではなく、続けたあとに見返す楽しみがなかなか訪れないからです。
どちらかを選ぶ話ではない
ここまで来ると、タイトルの問いはもう成立しません。色は索引で、言葉はその索引が指す中身です。どちらの仕組みを採用するかではなく、速いほうで場所を見つけ、遅いほうで中身を読む、というだけの話です。カレンダーをひと目見て、どの数日を読み返すべきか決め、その数日の言葉が、色では言い表せなかった部分を教えてくれます。色だけの記録は、誰も描写していない人生のグラフになります。言葉だけの記録は、誰も読み返す気力を持てないアーカイブになります。
実際の使い方
やることは思っているより軽いものです。短い一行と、ついでにつける色、それだけです。その一行は色を正当化する必要も、評価をつける必要もありません。「夜、Rと映画を見た」はそれ以上広げる必要がなく、良い一日だったかを判定する必要もありません。色は一貫していれば役目を果たし、一行は具体的であれば役目を果たします。どちらも誰かに説明責任を果たすためのものではなく、あとで少し距離を置いて一か月を眺め、そのあとで本当に大事な一日に近づいて読むためにあります。
TimeMapはこの分担そのものを形にしています。一件の記録は一行のテキストとカテゴリの色だけで、評価も所要時間も付きません。色は一か月分をめくったときにその形を見せてくれ、一行はある一日を開いたときにその午後を戻してくれます。
どちらか一方しか残せないとき
時間がなくて片方しか残せない日は、言葉を優先して色を諦めてください。中身の伴わない色は、使い続けるうちに具体的な意味を失っていきます。自分でも説明できない色の塊になってしまうのも、それはそれで一つの喪失です。色がなくても短い言葉さえあれば、少なくとも何があったかは残ります。カテゴリはあとから埋めても、その日は選ばなくてもかまいません。でも言葉だけは、その瞬間が過ぎてしまえばもう取り戻せません。