タイムブロッキングと一日を記録することは同じなのか
日曜の夜、十五分かけて来週のカレンダーに色つきのブロックを並べます。九時から十一時は集中作業、十一時はメール、六時はジム。水曜になっても、そのブロックはそのままの場所にあります。ただ、そこに書かれている一日は、実際には起きなかった一日です。誰も動かしていないし、誰も消していない。ただ静かに、真実ではなくなっただけです。カレンダーがそうなるというのは、少し奇妙なことです。
ブロック表は、その日が始まる前に書かれている
タイムブロッキングは、これから来る時間の使い方を前もって決めることを求めます。それ自体は意味のあることです。一日の雑務が押し寄せる前に、優先順位について一度選択をさせ、何も決めなければその選択どおりに進むようにしてくれます。ただ、構造としてはあくまで予測です。それを書いたのは、まだ水曜日に出会っていない自分であり、十時に取引先から電話が入ることも、集中作業のブロックが始まって十九分で中断されることも、あらかじめ知りようがありません。
だからといって、その計画が無意味だということではありません。それは計画であるというだけのことで、記録とは別の文書です。天気予報と、実際に外で起きた天気が別のものであるのと同じです。
記録は、その日が終わったあとに書かれている
記録は逆の方向に進みます。九時から十一時に何をするかを前もって決めるのではなく、その時間が実際にどうだったかを、終わったあとに書きます。水曜日の予定外の出来事から守るべきものは何もありません。その一行が書いているのは、水曜日に壊されかねなかった意図ではなく、水曜日に実際に起きたことそのものだからです。しかも書くのは事後で、そこにはもう推測すべきことは残っていません。
これが、記録がブロック表のように古びない理由です。ブロック表が正しいのは、書き終えたその瞬間だけです。それ以降の一時間ごとが、現実がその通りに動いてくれるかどうかへの小さな賭けになります。記録は書いたその瞬間に正しく、それはレシートが正しいのと同じ理由によります。何かを予測しているのではなく、すでに起きたことに名前をつけているだけだからです。
このずれは、見過ごされやすい
厄介なのは、ブロック表は正しかろうと間違っていようと、見た目がまったく同じだということです。九時から十一時には「集中作業」と書かれていて、それは実際に集中作業が行われたかどうかとは関係なく表示され続けます。守られたブロックと、火曜のうちに静かに放棄されたブロックとのあいだに、見た目の違いはありません。だから計画は、その週の実際の姿を描けなくなったあとも、計画として機能し続けます。そのずれは、自分から確かめに行かない限り見えてきません。そして多くの人は確かめに行きません。カレンダーは、自分がもう正しくないことを教えてくれないからです。
記録には、この問題はほとんど起こりません。そもそも未来を描くつもりがないからです。「水曜日はこうだった」と静かに嘘をつき続けるブロックは存在しません。水曜日についての一行は、水曜日が実際に終わるまで、そもそも書かれていないのですから。
優劣ではなく、答えている問いが違う
この二つを、どちらを使うべきかを競い合う対立するやり方として捉えたくなりますが、実際には同じ問いに答えているわけではありません。ブロック表が答えるのは「この時間を何にするつもりだったか」で、記録が答えるのは「この時間は結局何になったか」です。この二つの答えがずれていても、どちらかの文書が間違っているわけではありません。計画は、書かれた瞬間には正直な見込みであり、記録は、そのあとに続いたことについての正直な報告です。ただ、一週間後になっても、誰かが更新しなくてもまだ正しいままでいられるのは、そのうちの片方だけです。
TimeMapについて
TimeMapが向いているのは、この二つ目の文書のほうです。維持し続けるべきブロックカレンダーも、照らし合わせるべき予定表もありません。思いついたときに、していたことを一行書くだけで、それがその日の記録として積み重なっていきます。何かを「つもり」と照合する必要はなく、一日が思っていた通りに進まなかったからといって、修正すべきものもありません。その一行は、そもそも何かを予測しようとして書かれたものではないからです。
もしすでにブロックカレンダーで計画を立てているなら、こうした記録はそれを置き換えるものではありません。あとになって、予定ではなく実際に何が起きたのかを教えてくれる、もう半分の部分です。