会議ばかりで終わった一日は、どう記録すればいいのか
カレンダーは朝九時から夕方五時まで隙間なく埋まっていて、昼休みの時間すらろくに取れなかった。夜になって一行書こうとしても、何を書けばいいのか思いつかない。何かを作ったわけでもなく、何かを仕上げたわけでもない。ほとんどの時間、いくつもの会議室や通話の中で話していただけで、それらはもう記憶の中で溶け合ってしまっている。反射的に「一日中会議」とだけ書いて終わらせるか、あるいはその日をまるごと記録しないでおくか。人の話を聞いていただけの一日は、自分のものとして記録するに値しない一日のような気がしてくる。
「会議」という言葉は、形式を語っているだけで中身を語っていない
この言葉をそのまま記録にしてしまった瞬間、実害が出る。それはその日の形式を表しているだけで、中身については何も語っていないからだ。六時間の会議は、同じことが六回起きたわけではない。六つの違う部屋、六通りの違う顔ぶれがあり、そのほとんどの中に、他とは入れ替えのきかない瞬間が少なくとも一つはあった——何かが決まった瞬間、決着しなかった対立、誰かが口にしたひとつの数字が来週の見え方を変えてしまう瞬間。「一日中会議」という一言は、そのすべてを一つの言葉に押しつぶしてしまう。それは、何も意味のなかった一日にも、プロジェクトの方向をひそかに変えてしまった一日にも、同じように当てはまってしまう言葉だ。この二つを区別できない記録は、あまり多くを記録できていない。
議事録を書いているわけではない
六つの会議の議論をすべて再現することなど、誰も求めていない。それをやろうとするのが、この作業を十秒の習慣ではなく宿題に変えてしまう一番早い方法だ。こういう一日の終わりに、本当に問うべき問いはもっと狭い。どの部屋で話されたことの中で、三か月後にもう一度探したくなるのは、結局どれか。たいていはその会議まるごとではなく、その中のひと言だ。
- 実際に何が決まったか、一行で——そこに至る議論ではなく、結論だけ。
- 意見が割れて決着しなかった点があれば、それが再び持ち上がりそうだと感じるなら。
- 自分が今誰かに借りができたこと、あるいは誰かが自分に借りができたことで、他のどこにも書かれていないもの。
- もしあれば、他とは違っていた一つの会議——実際に何かを動かした会議。
- どの会議にも本当に何も残らなかったなら、それも一行の価値がある。何も生まなかった一日の会議、というのもそれ自体が情報だ。
九時間分の一日から出てくるのは二、三行で、議事録ではない。最後の会議室から自分の席まで歩いて戻る時間より短く書き終わる。
計測アプリでは、これより多くではなく、より少なくしかわからない
時間を測るための道具は、この一行を書こうと座った時点ですでにわかっていたことをそのまま返してくるだけだ。会議六時間、メール一時間、といった数字と、それを分析したように見せるための円グラフ。こういう一日が本当に投げかけている問いには、それでは答えられない。問いは「会議がどれくらいの割合を占めたか」ではなく「その中で実際に何があったか」だからだ。すでに全員が合意していたことを確認し合うだけに費やされた六時間も、来四半期になってもまだ意味を持つ決定をまとめ上げた六時間も、合計としては同じ数字になる。情報は、もともと所要時間の中にはなかった。
こういう日が続いたとき、後から何が見えてくるか
会議で埋まった一日を単独で読んでも、たいていはその火曜日が忙しかったとわかるだけだ。それが一か月分まとまると、一日だけでは見えないものが見えてくる。これがいつもの一週間なのか、それとも新しい常態になりつつあるのか。仕事について話す時間と、実際に仕事をする時間の比率が、ひそかに傾いてきていないか。同じ対立が、どの回でも本当には解決されないまま、数週間おきに別の部屋で顔を出し続けていないか。これらはどれも、会議続きの一日の内側からは見えない。比べられるだけの記録がたまり、違う様子だった週と並べて初めて見えてくる。
TimeMapは、その日に何かが生まれたかどうかを、記録する前提にはしていない。会議で埋まった一部屋も、ほかの一日とまったく同じように、一行と一色をつけて、カレンダーに書かれた時間数ではなく、実際にそこで起きたことをもとに保存される。後から会議続きの期間を普通の期間の隣に並べてみれば、そこに見えるのは実際に変わったことであって、記憶の中に「忙しかった」という言葉だけを残して消えていく一週間ではない。