自分が思っている時間の使い方と、実際の時間の使い方は同じか
先週はどんな一週間だったかと自分に聞くと、考えるより先に答えが出てくる――だいたい仕事に追われて、運動もそこそこして、無駄な時間はあまりなかった、ただスマホを見すぎた夜が一晩あって、それだけ少し気が咎めている。この答えはすぐに出てくるし、一見すると完結している。ところがこれが、思っている以上によく間違っている。しかもでたらめに間違っているのではなく、決まった方向に、その答えの作られ方そのものが原因で間違っている。
一週間の記憶は、目立った出来事だけで編集されている
誰も、記録のとおりに一週間を思い出しているわけではない。残るのは、その瞬間に印象に残るほど際立っていたものだけだ――大変だった一件の打ち合わせ、達成感のあった一回のランニング、早く寝るつもりが結局寝そびれた一晩。一週間の大部分を占める、何でもない時間は、個々の場面として残ることなく、ひとつのぼんやりした背景音に圧縮されてしまい、起きたことすらほとんど意識されない。自分が語る「先週」は、その週の要約ではない。たまたま注意を引いたものだけで組み立てられた、ハイライト集を要約だと錯覚しているにすぎない。
過大に残るものと、消えてしまうもの
ここで生じるずれには、決まった形がある。ランダムなずれではない。罪悪感や誇らしさを伴う出来事は、実際の比重よりずっと大きく記憶に残る――スマホを見すぎた一晩は、そうでなかった残りの日々を覆い隠すほど大きく感じられ、たった一回の運動が、あとの六日間は続かなかった活発さの象徴になってしまう。その一方で、労力のいらなかったこと、それ自体に何の感情も伴わなかったことは、跡形もなく消えていく。同僚を手伝った一時間、運動のつもりではなかったから記録にすら残らなかった散歩、平穏で特筆すべきことがなく、いまではもう思い出せない二晩。この記憶は、あなたを騙そうとしているわけではない。ただ、目立ったものだけで組み立てられているだけであり、一週間の大部分は静かなのだ。
このずれが見過ごせない理由
この記憶が自分の中だけにとどまるなら、大きな問題にはならない。だが実際には、たいていこの記憶をもとに判断が下される。「先週はだいたい仕事だった」と記憶している人は、休む時間を増やそうと何かを削るが、実際の記録を見ると比重は逆かもしれない。「自分の趣味にもう全然触れていない」と感じている人が、記録を見返すと、先月それを三回やっていたと分かるかもしれない――ただ、記憶に残るほど劇的な日ではなかっただけで。この記憶を信じることの代償は、少しずれている程度では済まない。何を見落としているかに気づかないまま、間違った問題に自信満々に照準を合わせてしまうことなのだ。
記録は、あとから編集されない
記憶と書き留められた一行の違いは、事実としての正確さというより、書かれたタイミングの違いだ。記憶はあとになって組み立てられる。そのときの気分に左右されながら、筋の通った物語になるよう形作られる――つまり、何かを削ることで初めて成り立つ。出来事の直後に書かれた一行には、まだ仕えるべき物語がない。ただ、そのとき何をしていたかを述べているだけだ。そうした一行を十分に積み重ねてあとから読み返せば、ハイライト集にはならない。大変だった月曜日の隣に、何でもなかった火曜日も、実際に起きた割合のまま並んでいる。
記憶と実際を照らし合わせてみる
ここで役に立つのは、自分の記憶全般を疑うことではない。それは不可能でもあるし、あまり気持ちのいいことでもない。そうではなく、実在する一週間を選んで、記憶と記録をたまに並べて、その違いを淡々と読んでみることだ。自分の間違いを見つけて責めるためでも、その週に点数をつけるためでもなく、ただどこがずれているかを見るためだ。だいたい一致していることもあり、それはそれで知る価値がある。多くの場合、記録は記憶が静かに落としていた何かを教えてくれる――思っていたより誰かと過ごした時間が長かったこと、一週間を食いつぶしていると思っていたものが実はそれほどでもなかったこと、記憶の中の平凡な一週間より、実際にはもっと良いことがあった一週間だったこと。
TimeMapについて
TimeMapは、していたことを日付つきの一行として残す。あとから記憶を頼りに組み立てるのではなく、その瞬間に近いタイミングで書くので、劇的な出来事でなくても記録に残る。実際にあった一週間と、自分が語りそうな一週間とを並べれば、目立ったことではなく、実際に起きたことを読むことになる。
自分の時間についての記憶は、わざと間違っているわけではない。ただ、静かな部分にはもともと手が届かないだけだ。それをたまに淡々とした記録と照らし合わせてみることは、自分の間違いを探すためではない。ハイライト集が何を落としていたかを知る、唯一の方法なのだ。