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TimeMap / ガイド

今年の新年の目標、本当に続いているのか、どう確かめるか

年の半ばを過ぎたころ、この問いが勝手に浮かんでくる。一月一日に決めたこと――毎朝走る、夕食のあとはスマホを見ない、あの語学アプリを開く――は、本当に続いているのか、それとも三週間だけ盛り上がって、あとは静かに消えていたのか。答えを探しに記憶の中を見にいっても、返ってくるのは答えではなく、ひとつの感覚だ。そしてその感覚は、都合よくこちらの味方をしてくれる。

記憶がだいたい「続いている」と答えたがる理由

いま自分に、今年その目標を続けられたかと聞いてみると、最初に浮かぶのは日数の記録ではない。決意したあの瞬間――一月一日、台所に立って、今度こそはと本気で決めた場面だ。あの瞬間が記憶に残るのは、それがはっきりした一つの出来事だったからで、記憶はまさにそういう単発の出来事を覚えておくのが得意にできている。その後に続いた二百日ほどの、目標を果たした日も果たさなかった日も、一つひとつを別々に覚えておくほどの劇的さは持っていなかったので、あっという間に一つの漠然とした印象に押しつぶされてしまう。そして漠然とした印象は、たいてい自分に甘くなる。反論の材料になるような具体的なものが、そこには何も残っていないからだ。

だから「だいたい続けられた」という答えは、今年何回それをやったかを教えてくれているのではない。決意したあの瞬間がどれだけ印象的だったかを教えてくれているだけで、その二つは本来まったく別の話だ。

目標は「やめる」のではなく、いつのまにか薄れていく

新年の目標を意識的にやめると決める人は、ほとんどいない。二月のある火曜日に座って、正式に取り消し線を引くわけではない。実際に起きているのはもっと静かなことだ。一日休む、理由はそれなりに納得がいく。またもう一日休む。そのうち一週間まるごと、それ自体を思い出しもしない週が来る。そして三月になるころには、「もうこれは自分がやっていることではない」というのが、いつのまにか事実になっている――正式に決めた瞬間など一度もなかったのに。やめた瞬間が存在しないので、記憶にも「これはいつ終わったか」を保存する場所がない。目標そのものが「いまも続けていること」のラインを静かに下回っていくのと同じように、記憶に残す価値があるもののラインも静かに下回っていくだけだ。

年の半ばのこの問いが、自分の頭の中だけではどうしても答えられない気がするのはこのためだ。思い出そうとしているのは一つの出来事ではなく、五か月にわたって広がった「何も起きなかったこと」であり、「何も起きなかったこと」は、そもそも記憶が保存するようにはできていない。

「続いたかどうか」は記憶の問題ではなく、頻度の問題

本当に知りたいこと――これは十分な回数、十分な週にわたって起きたので、本物と呼んでいいのか――は、二つの期間の比較にほかならない。始めた直後の数週間と、いまの数週間だ。感覚はこの比較には答えられない。感覚が扱えるのはいまこの瞬間だけで、そこにたまたま思い浮かんだ材料でしか判断できないからだ。きちんと答えるには、日付のついた二つの期間を並べて実際に数える必要がある。二つの曖昧な印象を戦わせるのではなく。

大まかな数字も、思うほど役に立たない。「たぶん半分くらいはやった」と「一月は毎日やって、三月以降は二回しかやっていない」は、どちらも正直に言えば「やったりやらなかったり」とまとめられてしまう。だが中身はまったく別の一年だ。それが同じ肩すくめの下に隠れてしまっている。

記憶には確かめられず、記録なら確かめられること

もし一月のあいだ、何かしら書いていたなら――走ったこと、早く寝たこと、練習したことについて、ざっくりとでも数行だけでも――その日付のついた記録こそが、いま唯一頼りになる証人だ。最初の数週間を開いて、実際に何回あったか数え、次にいまと同じくらいの長さの期間を開いて、もう一度数える。その二つの数字の差が、本当の答えだ。たいていは感覚が思っていたよりも具体的で、あまり気持ちのいいものではない。ただ、逆のこともある。すでにやめたと思い込んでいたことが、実は一月ほど大々的ではないだけで、誰にも気づかれないまま小さく静かに続いていた、ということもある。

探すべきなのは判決ではなく、形だ。ある特定の週で急に途切れたのか。その週の前後には、他に何が書かれていたか。ふだんの週は乗り切れたのに、出張や忙しい時期が来た瞬間に消えたのか。その、実際に薄れていった一週間のほうが、全体の割合よりずっと役に立つ。本当の障害は、その週の中に転がっているからだ。

もし当時、何も書いていなかったら

記憶だけでは決着がつかないが、直感よりは頼りになる手がかりがいくつかある。ランニングアプリの記録、カレンダーに繰り返し入っている予定、レシートの束、写真の撮影日時、「最近ちゃんと続けてる」と友人に送ったメッセージ。日付さえついていれば、無理に思い出そうとするより役に立つ。これらも本来この問いのために作られたものではないが、日付のある事実は、すでに自分の都合よく丸め込まれてしまった印象より、いつでも信頼できる。

答えがどちらであっても、そこからどうするか

正直に数えてみて二月には薄れていたとわかっても、それは自制心の採点ではない。新年の目標の多くが薄れていくのは、たいてい同じ構造上の理由による。決意した瞬間は印象的で、そのあとの継続は印象的ではなかった。目新しさが消えたあと、それをまだ続けていると自分に気づかせてくれるものが、何も残っていなかっただけだ。七月にまた始めるのに、儀式も、一月の自分への謝罪もいらない。逆に数えてみて実はほとんど続いていたとわかったなら、それも同じようにそのまま受け止めていい。何か月も前から「大したこと」だと感じなくなっていたからといって、うっかり忘れてしまわずに。

これは特別な使い方ではなく、日々の記録のごくふつうの使い道だ。新年の目標に点数をつけるためではなく、年の半ばに浮かぶこの問いに、照らし合わせるものを与えるためにある。TimeMapが残すのは、一行の文章と、時刻と、カテゴリーの色だけだ。時計は動かず、所要時間も測らない。そして一月といまと、二つの時期を並べて開くことができる。もともと自分に都合よくできている感覚にたよって推測するのではなく、実際に書かれたものを読むために。

これは自分の失敗を見つけるためのものではない。思い込むのではなく、確かめるためのものだ。記憶のふりをした思い込みは、結局のところ、ただの思い込みでしかない。