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習慣をやめると、本当に自由な時間は増えるのか

アプリを消した。好きでもないのに夜更かしして見ていた番組をやめた。得るものより削られるもののほうが多かった付き合いを断った。やめる理由はいつも単純で、そこに使っていた時間が自分の手元に戻ってくるはずだ、というものです。一か月たって振り返ってみても、どこがどう変わったのか指し示せません。やめた習慣そのものは確かに消えました。けれど、戻ってくるはずだった時間は、どこにも見当たりません。

空いた時間は、空いたまま気づかれることがほとんどない

何かをやめるとき前提にしているのは、そこに隙間ができて、その隙間は感じ取れるはずだ、という考えです。実際にはその隙間はほとんど間を置かずに閉じ、しかもいちばん近くにあったものによって閉じられます。別のアプリに置き換わったり、やめた習慣の直前にしていたことが少し長くなったり、次に何をするか決めるだけで時間が過ぎていったり。どれも「代わりに入り込んだもの」だと名乗って現れるわけではありません。一つひとつが小さく忘れやすいので、積み重なっても「別の姿をしたあの習慣」だとは気づかれないまま、一日のその時間帯にすっかり収まってしまいます。

これは意志の弱さの話ではありません。一日には空いた部屋がない、というだけのことに近いです。一人退場させても部屋が目に見えて空になるわけではなく、もともとドアのそばに立っていた何かが入ってくるだけです。

「やめた瞬間」の感覚が、その後を教えてくれない理由

はっきり覚えているのは、やめると決めたその瞬間だけです。アプリを削除した日、これまで応じていたことに初めて断りを入れた会話。そこが鮮明なのは、始まりと終わりのある一つの出来事だったからです。その後に続くのは出来事ではなく、何週間もの、特に形のない普通の時間で、こういう普通の時間こそ記憶がいちばん保持できないものです。やめたこと自体は思い出せても、それから積み重なった何百時間が実際に何に使われたのかは、記憶だけではまず思い出せません。

だから「今、自由な時間は増えたのか」という問いへの答えは、たいてい感覚という形をした推測にすぎません。しかもその感覚は、あとに残った証拠ではなく、最初の決断についていきがちです。正当な理由があってやめたのだから、うまくいったに違いないと感じる——実際に何か測れる変化があったかどうかとは関係なく。

感覚には見えないものを、記録なら見せてくれる

この問いに実際に答える唯一の方法は、習慣がまだあった頃の時間の使われ方と、やめた後の時間の使われ方を、記憶で補わずに、起きたとおりの姿で見比べることです。分数を足し合わせる話ではなく、二つの期間を並べて、何が違うかを読み取る作業です。しばらく静かだった分類が戻ってきていないか——趣味、夜の習慣、「読書」や「外出」に当たる記録が以前より増えていないか。それとも、やめた日を境にした期間は、一行ずつ比べてもやめる前とほとんど同じで、同じ空白に別の名前が入っただけなのか。

記録がこの問いに答えられるのは、それが起きたその場で書かれたものであって、後から組み立て直したものではないからです。何百時間分もの記憶を無理に呼び覚ます必要はありません。すでに書いてある四、五十行の短い一文を読み返し、一つの期間ともう一つの期間の間で何が変わったかに気づくだけです。

「効果があった」は記録の中でどう見えるか

それは大きく目立つ「自由時間」というひとかたまりとしてはめったに現れません。むしろ散らばって見えます。何日か続けて散歩が一回増えている、就寝が少し早くなっている、その習慣に押しのけられていた何かが戻ってきている、「退屈だった」という記述が、問題というより、誰にも占領されていない時間そのものの手触りとして読める。その散らばりこそが実際の証拠です。ただし、一日だけを見ていては現れず、複数の日をまとめて見て初めて見えてきます。

そして、答えが「増えていない」であることもある

正直に言っておくべきことがあります。比べてみたら何も動いていなかった、ということもあります。空いたはずの場所が、やめたものと同じくらい没頭できる何かで埋まっていたり、良くなったとは言えない、ただ違うだけの何かで埋まっていたりします。これは方法が失敗したのではなく、方法がきちんと働いた結果です。「これをやめても、時間の使われ方は実はそれほど変わらなかった」と分かることには、それ自体の価値があります。決断した瞬間の重みだけを頼りに「うまくいったはずだ」と思い込み続けるより、記録から確かめるほうがずっと安上がりです。

これは、TimeMapが目指していることに近いところにあります。やめた習慣にどれだけ時間がかかっていたかを測ることはなく、そもそも何かの所要時間を測る機能自体がありません。中にタイマーはどこにもありません。何をしていたかを短い一行に書き、色をつけて、思い出したときに書き足していくだけです。あとから、任意の期間をもう一つの期間の隣に並べて読み返すことができます。何かをやめる前とやめた後は、単に二つの期間を並べたものにすぎません。しかも推測ではなく、そのとき自分が実際に書いた言葉で。

何かをやめて本当に何かが戻ってきたのか自信が持てないなら、その自信のなさ自体が、感覚を信じていいかどうかへの答えになっています。感覚は、ある決断がそのとき重要だったことを教えるのは得意です。けれど、その決断のあとの数週間に何が起きたかを教えるようにはできていません。そのためには、その間ずっとその場にあったものが必要で、あとから組み立て直した記憶は、その場にはいなかったのです。