退屈な一日ほど、振り返ると短く感じるのはなぜか
過ごしている最中はやたらと長く感じる一日——退屈で、これといって何も起きない一日——が、一か月後にはほとんど内容を思い出せない、まさにその一日だったりする。午前十一時の時点では終わりが見えないほど長かったのに、年末になって思い出そうとすると四秒もかからない。これは記憶が壊れているのではない。中身の少ない一日が、目立ったものしか残さない頭に落ちれば、もともとこうなるということだ。
「体験する速さ」と「思い出す速さ」は別の時計で動いている
「あの日はどれくらい長く感じたか」という問いの中には、実は二つの別々の問いが隠れていて、それぞれ違う仕組みが答えを出している。一つは、その日を過ごしている最中にどう感じたか——これを「体験速度」と呼ぶことにする。もう一つは、その日が終わったあと、振り返るとどれくらい長く感じるか——これを「想起速度」と呼ぶことにする。たいていの人は、この二つが連動していると思い込んでいる。だらだらと長く感じた一日は、記憶の中でも大きな場所を占めるはずだ、というわけだ。ところが実際にはほとんど逆になる。過ごしている最中にいちばんだらだらしていた一日ほど、終わったとたんにいちばん早く消えていく。
退屈な一日が、過ごしている最中に長く感じる理由
これといって何も起きていないとき、注意はほかに行き場がなく、何度も時計に戻ってくる。一回一回の確認は小さなものだが、その回数が多く、しかもそれぞれが直前の確認との間に置かれた小さな区切りになる。区切りが五十個ある一日は、五個しかない一日より、通過する関門が単純に多い。そして、この「関門が多い」という感覚こそが、体験している最中の「時間が長く感じる」の正体だ。退屈が何か不思議な力で時間を遅くしているわけではない。ただ、時間が過ぎていくことに何度も気づかされているだけであり、それは「時間が実際に遅くなった」とは別のことだが、内側からはほとんど区別がつかない。
同じ一日が、終わった瞬間からほとんど空になる理由
記憶は、その一日がどれくらいの長さだったかで整理しているのではなく、それが前後と区別できるほど際立った内容だったかどうかで整理している。退屈な一日は、定義からしてこの「際立った内容」が乏しい。前の日、その前の日と同じことしか起きていなければ、記憶が引っかかる場所はほとんど残らず、わずかに残ったものも「いつもの一週間」の中にまとめて放り込まれ、その日自身の日付の下には残らない。過ごしている最中にその一日を長く感じさせていた時計の確認は、あとになると何も残さない。時計をちらっと見ることは、それ自体が出来事ではなく、「何も起きていない」ということが繰り返されているにすぎないからだ。
充実した一日は、両方とも逆になる
出来事の多い一日は、過ごしている最中は速く感じやすい。理由は正反対で、注意が実際に起きていることに占められていて、時計を確認しに戻る余裕がないからだ。自分のペースをいちいち確認する者がいない一日は、気づかれないままするりと過ぎていく。ところがそれが終わったあと、思い出す段になると話はまったく逆になる。実際に起きた一つひとつの出来事がそれぞれ目印になり、目印が十数個もある一日は、一段落に圧縮するだけでもかなりの労力がかかる。四秒どころではない。過ごしているときは速く感じたのに、思い出すときには重くなる——退屈な一日とちょうど鏡合わせの関係にある。
どちらの感覚も、その日についての確かな証言ではない
ここは少し立ち止まって考える価値がある。というのも、この二つの感覚はどちらも、いかにも信頼できそうな顔をして現れるからだ。だらだらした午後の重さは、「この午後は確かに長かった」という動かぬ証拠のように感じられる。その同じ午後が数週間後に一瞬で圧縮されてしまうことは、「実はほとんど何も起きていなかった」という動かぬ証拠のように感じられる。この二つが同時にその日そのものを測っているはずがない——言っていることがまるで逆なのだから。そして実際には、どちらも測ってはいない。体験速度が測っているのは、注意が何度も時間を確認しに戻った回数であり、想起速度が測っているのは、あとに残った目印の数だ。どちらも、自分が測っているものについては正直だ。ただ、そのどちらも、その日そのものを測ってはいない。
一行の記録だけができること
放っておけば何も残らない一日も、たった一文——「静かな一日だった、たまっていた事務作業を片づけて、夕方少し歩いた」——を書くだけで、目印を一つ手に入れる。その一文は、もっと出来事の多い日と記憶の中で場所を奪い合う必要がない。そもそも記憶に生き残りを頼っていないからだ。それは記録の中に置かれていて、まわりで何が起きていたかとは関係なく存在し続ける。半年後に読み返せば、そこに書かれた地味な火曜日はそのまま、丸ごと残っている。もしあのとき、あの信頼できない二つの時計のどちらかに任せきりにしていたら、まず残っていなかっただろう。
TimeMap が埋めようとしているのは、まさにこの隙間だ。一日が過ごしていてどう感じられたかを測るわけでもなければ、何を記憶に残すかを記憶と競うわけでもない。書いた一行を、実際に起きた日付と色とともに、そのまま保持しておくだけだ。退屈な一日にも充実した一日にも、同じ一文が残り、あとから読み返せる。どちらがだらだらしていて、どちらがあっという間だったかとは関係なく。
次に一日がなかなか終わらないと感じたら、その感覚自体はその日についての判定ではなく、ほかに見るものがない頭が注意でつくり出しているものにすぎない、と思い出す価値がある。もし本当の判定がほしいなら、それはその日が自分から消えていく前に、書き残しておいたその一文のほうだ。