なぜ以前何を心配していたか、思い出せなくなるのか
半年前は、そのことで頭がいっぱいでした——気が重い打ち合わせ、まだ決まっていない何か、仕事でうまくいかないかもしれない何か。今、それが何だったか尋ねられても、何も出てこないことがあります。「結局大丈夫だった、あのとき不安だったのは覚えている」というのとは違います。本当に何も出てこないのです。何日も夜を占めていたはずのその心配が、何についてのものだったかさえ言えなくなり、ただ「何かあった気がする」というかすかな感触だけが残っています。
心配は「出来事」ではないので、記憶に留めるものがない
記憶は起きたことを留めるのが得意です——ある具体的な午後、誰かが言った一言、知らせを受けた瞬間。心配はそのどれでもありません。ひとつの出来事というより、ふだんの時間の上に広がる天気のようなもので、朝食のときにもあり、机に向かっているときにもあり、友人が別の話をしているのを半分聞きながらもそこにあります。何も起きないまま、それが続くだけです。その繰り返しこそが心配の実体であり、場面を伴わない繰り返しは、記憶がもっとも苦手とするものです。ここだ、これを覚えておこう、と指させる瞬間がひとつもありません。
対して、心配していたことが実際に悪い方向へ進めば、それは輪郭を持つ出来事になり、前と後ができ、記憶はそういう輪郭のあるものはきちんと留めます。しかし、たいていの心配は悪い方向には進みません。ただ静かに止まるだけで、終わりを示す場面もなく、場面のない終わりは、心配そのものと同じくらい思い出しにくいものです。
次の心配が、前の心配が片づく前に押し出してしまう
もっと単純な理由もあります。新しいものに置き換わるのです。意識が同時に抱えられる「進行中の心配」は、だいたいひとつ、小さなものなら二つくらいです。新しい心配が——別の締め切り、別の気の重い会話が——現れると、それは前の心配が座っていた席をそのまま奪います。前の心配が実際に片づいていたかどうかは関係ありません。誰も、次に移る前にわざわざ「この心配は終わった」と宣言したりはしません。ただ、今日いちばん急を要するものに押しのけられて、途中のまま脇に追いやられるだけです。
つまり、かつてあなたを占めていた心配の多くは、実際には一度も終わっていません。そのままの状態で放置され、あとから来た心配の下に、一つまた一つと埋もれていっただけです。これは、心配が実際に解決されて安心して忘れられる場合とはまったく違います。忘れているからといって、何も問題がなかったという証拠にはなりません。ただ、そのときはもっと急ぎに見える何かが、他にあっただけです。
それが静かに奪っていくもの
いちばんの代償は、自分の「実績」が手元に残らないことです。これまでの人生で、眠れなくなるほど心配したことは、実際にはかなりの数あったはずで、そのうちの大半は、結局何も起きずに終わっています——たいていの人にとって、たいていの場合、心配というのはそういうふうにできています。けれど、具体的にどんな心配をしていたかを思い出せなければ、その心配がどうなったのかも思い出せません。思い出せない実績は、あなたを助けてくれません。新しい心配はどれも、これまでにない、格別に深刻な、これまで乗り越えてきたものとはまるで違うものに感じられます。記憶にとっては、実際にそうだからです。それ以前によく似た心配が五十回ほどあったとしても、比べる材料が何ひとつ残っていないからです。
もうひとつ、もっと静かな代償もあります。記録がなければ、今の心配が、以前あなたを占めていたものと本当に種類が違うのか、それとも同じパターンが別の装いで再び現れているだけなのか——誰かをがっかりさせることへの同じ恐れ、ある種の会話への同じ気の重さが、毎回違う名前をまとって戻ってきているだけなのか——見分けがつきません。このパターンは、ひとつの心配の内側からはまず見えず、いくつも振り返って初めて見えてくる類のものです。
そのとき書いた一行に、まだ残っているもの
書き留められた心配には、この問題がありません。出来事である必要はなく——「木曜の打ち合わせのことばかり考えている、始まる前からもう悪い方に進む気がしている」——その一行自体が「場面」になり、記憶に欠けていた部分を埋めてくれます。あとで読み返すと、記憶だけでは得られない二つのことが手に入ります。ひとつは、当時何を恐れていたかを、名前つきで正確に知ること。ぼんやりと「何か恐れていた」という余韻だけではありません。もうひとつ、もっと役に立つのは、その後実際にどうなったかを確かめられることです。数行あとにはっきり結果が書かれていることもあれば、その後二度と出てこないことで、何でもなかったのだと分かることもあります。これこそが、「たいていの心配は結局何も起きない」という実績を、実際に積み上げていく唯一の方法です。
読み返すことと、思い出すことは同じではありません
これは、個人の記録が本当に役に立つ場面の多くに共通する区別です。思い出すことは再構成であり、読み返すことは取り出すことです。一年前に何を心配していたか思い出そうとしても、頭の中には元になる材料がなく、何も出てこないか、もっともらしい何かをこっそり作り出すかのどちらかになります。実際にその週に書かれた記録を開けば、その再構成の過程をまるごと飛ばせます。記憶に「当時どうだったと思うか」を尋ねているのではなく、その週を実際に生きていた本人が、結果がどうなるかまだ知らないうちに書いたものを、そのまま見ているのです。
出てくるものは、ちょっと意外な形で、気持ちが軽くなることが多いものです。当時は人生でいちばん重大なことのように感じられた心配が、三行あとにはもう二度と出てこない、ということがよくあります。それ自体が答えであり、思い出す努力なしに、そこにそのまま置かれています。いくつか違う過去の心配についてこれを何度か試すだけで、たいてい傾向が見えてきます。恐れていたことの大半は、結局起きなかった。今覚えている「何を恐れていたか」という感触だけでは、そのことは絶対に分かりません。
TimeMapについて
TimeMapは心配だけを記録するために作られたものではありません——気分管理アプリではなく、生活の記録です——けれど、ある日のふつうの一行のなかに心配ごとが出てきたときも、他のことと同じように扱われます。日付つきで、自分の言葉のまま、いつでも開き直せるカレンダーの上に残ります。「〇〇のことが心配」と書くのに、お昼に何を食べたかを書くのと同じくらいの手間しかかかりません。それはつまり、次の心配がやってきて静かに取って代わられてしまう前に、あとから確かめられる形で残っているということです。
以前何を心配していたかを覚えておく義務は、あなたにはありません。ほとんどの人はそれができませんし、それは失敗でもありません。場面を伴わない感情には、もともとそういう運命があるだけです。ただ、自分の心配がだいたい当たるのか外れるのかをいつか知りたくなったときに、答えを持っているのは、今のあなたに残っているその感触ではなく、そのとき実際に残された記録のほうです。