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TimeMap / ガイド

なぜ二つの出来事の「どちらが先だったか」を忘れてしまうのか

実家に帰ったあの週末も、仕事で辞表を出しかけたあの一週間も、どちらも起きたことは間違いなく覚えています。でも、どちらが先だったかと聞かれると、すぐには答えられません。指を折って数え直すことになります。記憶は「起きたこと」を残すのは得意ですが、「どちらが先だったか」を残すのは苦手です。普段はそれで困りませんが、ある日突然、その順番がどうしても必要になることがあります。

記憶が残すのは出来事であって、時系列上の位置ではない

頭の中にあるのは、順番につながったフィルムというより、バラバラに散らばった写真の束に近いものです。一枚一枚は鮮明です——ある会話、健康診断の結果、旅行、口論。でも、どの写真がどの写真より前だったかを教えてくれるはずのつなぎ目、フィルムのパーフォレーションにあたる部分が、たいてい欠けています。手元にあるのは確かで独立した断片ばかりで、それを一列に並べる仕組みは残っていません。

これは記憶力の問題というより、思い出し方の仕組みそのものです。「それが起きたかどうか」を思い出す手がかりと、「他の出来事と比べていつだったか」を思い出す手がかりは、そもそも別物です。前者は簡単です。出来事自体が特徴的なので、それだけで見つけ出せます。後者は、起きたその瞬間に二つの出来事の関係をあらかじめ結びつけておく必要があり、たいていの場合、そんなことは誰もしません。その火曜日、「これは歯医者のあとで、雨が降る前だった」とわざわざ意識する理由はどこにもないからです。

順番はたいてい真っ先にあいまいになる

一年半前の二つの出来事を説明してもらうと、たいていの人はよどみなく話します。でも、どちらが先だったかを聞いた瞬間、そのよどみなさは止まります。間が空き、自信ありげな推測が出てきて、あとでメッセージのやり取りや領収書を確認すると、実は逆だったとわかることも珍しくありません。記憶の中身は順番よりもずっと長く保たれます。そもそも誰も「順番を覚えておこう」とは思っていないからです。出来事を覚えているというのは、ジョークを覚えているのに近い感覚です。オチは残っても、それを聞いた夜が正確にいつだったかは残りません。

二つの出来事が近ければ近いほど、似ていれば似ているほど、この問題は深刻になります。何でもない二回の火曜日は記憶の中で簡単に入れ替わりますが、結婚式と葬式は入れ替わりません。誰がいたか、天気はどうだったか、何を着ていたか——それぞれが十分な周辺情報を持っていて、単独で自分の位置を固定できるからです。何もなかった週が二つ続くと、そこには引っかかるものが何もないので、記憶の中で溶け合ってしまい、聞かれたときにたまたま先に思い浮かんだほうが、根拠なく「先に起きたほう」として扱われてしまいます。

順番を間違えることは、些細なミスではない

些細な話に聞こえるかもしれません——順番が逆でも大した違いはないだろう、と。でも順番は、「なぜそれが起きたのか」という説明そのものであることが少なくありません。口論があったのは、診断結果が出る前だったのか、あとだったのか。この二つは、同じ二つの出来事についてまったく違う話になります。一方は診断結果が口論を説明し、もう一方は無関係のまま並んでいるだけです。眠れなくなったのは転職の前だったのか、あとだったのか。順番そのものが、因果関係の主張になっています。順番を間違えると、細部を一つ間違えるだけでは済みません。実際には存在しなかった時系列の上に、自分の人生についての説明を組み立ててしまうことになります。

これはもっと小さな場面でも常に起きています。「何もかもうまくいかなかったあの週」を語るとき、車の故障を口論より前に置いてしまうことがあります。そのほうが話として筋が通る——一つのことが次を引き起こす——からで、実際には口論が先にあり、車の故障とは何の関係もなかった、ということがあります。誰も嘘をついているわけではありません。順番が、事実ではなく話の都合に合わせて組み直されただけです。

順番を保てるのは、ごく一部の出来事だけ

順番を保てるのは、節目となる出来事だけで、それには理由があります。結婚、引っ越し、新しい仕事の初日、誰かの死。どれも周囲の出来事に「前」と「後」というラベルを貼れるくらい際立っています。人が記憶をこうした節目を軸に整理するのは、そのためです。「引っ越す前のことだった」「父が病気になったあとのことだった」——順番のはっきりしない記憶の集まりの中で、節目だけが数少ない固定点だからです。

節目でないものは、すべて漂っていきます。何でもない週、いつも通りの月、これといって何も起きなかった長い期間——こうしたものほど、内部の順番が真っ先に、いちばん早く失われます。周りの日と比べて十分に違っていなかった日は、自分の位置を確保できないからです。一年後には、「去年の春のどこかだった」というのが精一杯の答えになっていることが多く、それはその頃、一日一日をはっきり区別できていたはずの数週間についての話です。

日付のついた一行が、記憶にできないことをしてくれる

起きたそのときに書かれた一行には、この問題がありません。そもそも「記憶が順番を保つ」ことをあてにしていないからです。順番は、そこに添えられた日付そのものです。一週間離れた二つの記録は、順番を組み立て直す必要がありません。写真に撮影日時が自動的についてくるのと同じように、その瞬間が印象的だったかどうかに関係なく、順番を最初から持っています。

TimeMapが目指しているのは、まさにこの部分です。記憶力を良くすることではなく、何でもない火曜日についての一行が、記憶が真っ先に手放してしまうもの——順番——を保ち続けられる場所を作ることです。書くときには重要かどうかを判断する必要はなく、一年後にカレンダーを開けば、それがあの旅行の前で、あの口論のあとだったと、勝手に教えてくれます。すでに都合よく組み直されているかもしれない話から、順番を逆算し直す必要はありません。

記憶そのものが信用できないという話ではありません。中身はたいてい、かなり正確に残っています。ただ、順番だけは書き留めておく価値があります。いちばん早く、いちばん静かに失われていく部分であり、たいてい必要になったときには、もうそこにないからです。