夏が冬より短く感じるのはなぜか
9月に「夏はどこへ行った」と聞くと、たいてい同じような答えが返ってくる。あっという間に終わった、何をしていたのかよく覚えていない。2月に「冬はあとどれくらい残っているか」と聞くと、今度はため息に近いものが返ってくる。夏と冬の日数はほぼ同じだ。違っているのはカレンダーではなく、そのときたまたま読んでいた時計のほうだ。
生きているあいだに動く時計
ひとつ目の時計は、その時間の中にいるあいだ、どれだけ速く過ぎるように感じるかを決める。これは注意がどれだけ外に向いているかで動く。旅行や締め切り、予定の連続など、注意を外へ引っぱるもので埋まっている時期は、過ごしているあいだは速く感じる。時計を見ている余裕がないからだ。退屈はその逆で、注意を引くものが何もないと、注意は時間そのものに向かうしかなく、見張られた時間はいつも長く感じられる。夏によくある評判と、冬によくある評判の裏には、この時計がある。夏は日が長く、予定も多く、いつもの流れが崩れがちで、注意がずっと外に向いているぶん、過ごしているあいだは速く進む。冬は日が短く、家の中で過ごす時間が増え、同じ道、同じ部屋の行き来が続く。注意を引き止めるものが少ないぶん、意識は時計のほうに漂い、時間は長く感じられる。
あとになってから動く時計
ふたつ目の時計は、その季節が終わってから動き出す。決め手になるのは、そのときどれだけ没頭していたかではなく、起きたことのうちどれだけが前の日と区別できる形で残ったかだ。記憶がひとつの出来事として独立して残るには、前日との違いがある程度必要で、そうでなければ全体がひとつのぼんやりした印象に溶けてしまう。毎日がほとんど同じ月は、あとから振り返るとほとんど何も残らない。過ごしているあいだ長く感じたかどうかとは関係なく、終わってしまえばどの日がどの日だったか区別がつかないからだ。逆に、週ごとに違う場所へ行った、一度きりの出来事が続いたというような月は、思い出すための手がかりが多く残るぶん、思い出すのに時間がかかる。そして、思い出すのに時間がかかる時期というのは、正直に言えば、それだけ長かったということだ。
ここでふたつの時計は食い違う。夏はたいていひとつ目の時計で勝つので、この理屈でいけば、ふたつ目の時計では負けるはずだ。区別のつく日々でできた季節は、あとから振り返れば短くではなく長く感じられるはずだからだ。実際、反射的な一言で答えるのではなく、腰を据えて夏を週ごとに思い出してみると、たいていこの通りのことが起きる。書き出したリストは、ため息が示唆していたよりずっと長くなる。終わった直後に人が口にするのは、ふたつ目の時計の結論ではない。ひとつ目の時計が残した余韻——過ごしているときの速さの感覚——だ。なぜなら、ふたつ目の時計をわざわざ動かす人はほとんどいないからだ。それには腰を据えて実際に日々を思い出す作業が必要で、たいていはその手間をかける前に、反射的な答えのほうが先に口から出てしまう。
冬は長さを嘆く癖がつき、夏は速さを嘆く癖がつく
もうひとつ、どちらの時計とも関係のない、単なる言い回しの癖もある。「夏はあっという間だった」という一言は、夏が終わる前から準備されている。夏の終わりは喪失だからだ。日の長さも、予定も、いつもの流れからの解放も、いっぺんに引き上げられていく。だから短さのほうが際立つ。冬の終わりは喪失ではなく安堵なので、最後の寒い一週間を前にして、その速さを惜しむ人はいない。この言い回しは、どちらの季節もまだ何も測られていないうちから、夏は短く冬は長いと決めてしまう。
ふつうの記録が実際に見せてくれるもの
どちらの時計が、あるいはどちらの言い回しが正しかったのかを確かめる方法はひとつだけだ。あとから組み立てた印象ではなく、そのとき書き残したものを見ることだ。記録された夏と冬を並べて読み返すと、たいてい「感覚」で思っていたよりずっと似通って見える。7月にも過ぎるのが遅い日があり、1月にも中身の詰まった週が確かにあり、どちらの季節も、口にした一言ほど単調ではない。TimeMapが向いているのは、まさにこの確認だ。していたことを一行と色だけ残しておけば、あとからカレンダー上の二つの期間を並べて見比べられる。どちらの時計が先に口を開くかに、結論を預けなくてよくなる。
問題は季節の側にはなかった
どちらの時計も間違ってはいない。ただ、別々の問いに答えているだけで、どちらも「実際に何が起きたか」には答えていない。それに答えられるのは、その場で書き残された記録だけだ。そしてその記録は、「終わらなかった冬」と「消えてしまった夏」のどちらも、反射的な一言が匂わせていたよりずっと普通のものに見せてくれる。