毎日同じことをしていても、記録する意味はあるのか
記録を始めて三週間もすると、たいてい同じ疑問が浮かびます。「ジム」ともう一度書く必要は本当にあるのか。犬の散歩、通勤、コーヒーを飲みながら二十分読書——四百回目の同じ言葉を、また書く意味があるのか、という疑問です。
省きたくなるのは、まちがっていない
朝食に何を食べたかは、一年後の自分にとってほとんど情報になりません。記録の目的が、あとで読み返す価値のある一行を残すことなら、毎日同じことは真っ先に省いてよさそうに見えます。実際、その判断はおおむね正しく、そうやって力を抜くからこそ、記録は二週間ではなく何年も続きます。歯磨きに一文が要る人はいません。
ただし、薄れていく過程は内側からは見えない
「ジム」と二百回書くことの価値は、その一行そのものにはありません。価値があるのは、二百三十回目にその言葉が消えていることに気づける、というところです。
習慣は、ある日突然やめるわけではなく、たいてい静かに薄れていきます。週四回が三回になり、そのうち「今度こそ」と思いながら行かない日が続く。その一日一日を見ても、いつもの忙しい日と区別がつきません。だからこそ、いつやめたのかを自分でも正確には言えなくなります。
もしそのことを一度も書いていなければ、比べる相手となる「以前の姿」自体が存在しません。薄れたことは薄れたこととして認識されず、ただ静かに新しい普通になります。あとで気づくとしたら、ふと「そういえば前はよくやっていたな」と思い出す瞬間だけで、それは本来、記録が肩代わりするはずのことです。
繰り返す事柄が記録しているのは、文章ではなく色
だから、繰り返す事柄にとって意味を持つ単位は、たいてい一文ではなく色のほうです。
同じ分類の色をつけた短い一行を繰り返し書くことは、それ単体で何かを語ろうとしているわけではありません。「ジム」という一行が一つだけあっても、そこにはほとんど情報がありません。それが積み重なって初めて意味を持つ図が、少しずつ描かれていく——その色が今月何回出てきたか、先月と比べてどうか、ある週を境に減っていないか、六週間後にまだ残っているか。これは一日を読み返しても分からず、二つの期間を並べて色を見て初めて分かることです。
- 一文書く価値がある例:「ジムに行かなかった、火曜から膝の調子が悪い」。何かが変わっていて、その理由に残す価値がある。
- 三文字で十分な例:「ジム、いつも通り」。何も変わっておらず、働いているのは色のほうです。
- 書かなくていい例:何も起きなかった通勤を、完璧な記録のためだけに長々と書くこと。その労力は、電車が本当に止まった日のために取っておく方がいい。
言うことがあるまでは、短く書く
実際のやり方は単純です。色を絶やさないよう、書ける中でいちばん短い、本当のことを書く。そして実際に一文を割くのは、その習慣がいつもと違った日だけにする——行かなかった、道を変えた、誰かと一緒だった、理由のはっきりした気分の違いがあった。それこそが、色の集計だけでは分からない情報を運んでいる日であり、余分な十秒をかける価値のある日です。
TimeMapでは記録ごとに分類の色がつき、それが期間ごとに集計されるので、三文字しか書かなかった日も、あとから働きます。今月と先月を並べれば、静かに薄れつつある習慣は、記憶に頼らなくても、色が以前より薄くなっているという形で先に見えてきます。
ジムにも、犬の散歩にも、通勤にも、毎日一文を書く義務はありません。義務があるとすれば、それを見えなくさせないだけの頻度で色を残しておくことです。そうすれば、それが静かになった日に、いつからかも分からないまま気づかなくなるのではなく、実際に目で見て気づくことができます。