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TimeMap / ガイド

悲しみの中で過ごした一日は、どう記録すればいいのか

大切な人を失った後の日々は、記録をつけていたとしても、いつもの記録とは違う形をしている。「一行、時刻、カテゴリー」といういつもの型にうまく収まらず、しばらくの間は、それを無理に収めようとすること自体が間違っているように感じられる。それでも、こんな時期に書いた素っ気ない記録がなぜ後になって意味を持つのか、何を書けばいいのか、そしてどの日を書けなくても構わない理由を説明します。

この一日は、記録がもともと要約するように作られていた種類の一日ではない

たいていの日は、それほど苦労せずに一行に収まる――数時間の仕事、用事がひとつ、誰かとの夕食。悲しみの中の一日は、そうした圧縮を拒む。何も起きなかったからではなく、起きたことが多すぎて、どれも数文字で言い表せるほど落ち着いてくれないからだ。一日中電話をかけ続け、誰も教えてくれなかった手続きをこなしていたかもしれない。あるいは、何をしたとも言えないまま壁を見つめて過ごし、食事をとったかどうかさえ思い出せないかもしれない。どちらも本当にあった一日だ。どちらも「仕事、ジム、誰かと夕食」のようには見えない。

書くことは、うまく耐えられているかどうかの成績表ではない

記録をつけたくないという気持ちは、たいてい「書くことが何もない」からではない。その一日が一文に押し縮められること自体に抵抗があるからだ――一文がその日の中身を本当に表せるはずもないのに。はっきり言っておく価値がある。日誌の一行は、あなたがどれだけうまく対処できているかの判定ではないし、誰かがそれを採点しているわけでもない。それはあなたが、後の自分のために書く一行にすぎない。落ち着いた文章である必要はない。「正しいやり方」で乗り越えていることを示す必要もない――そもそも正しいやり方などなく、それを求める記録はつける価値がない。

大切な人を失った後の数週間は、記憶の中でひとかたまりになって消えていく

これは、後になって初めてはっきりわかることだ。大きな喪失の後の最初の一ヶ月に、実際に何があったか――一日ごとに、誰が電話をくれたか、何を手配したか、誰のどんな小さな行動が助けになったか――を尋ねてみると、たいていの人が正直に答えられるのは、いくつかの鮮明な断片が突き出た霧のような記憶だけだ。葬儀の日、ある一本の電話、誰かが届けてくれた食事。それ以外はすべて、「あの時期」というひとつの区別のない塊に吸い込まれてしまう。その晩か翌朝に書いた素っ気ない一行は、それが実は火曜日だったこと、最初に電話をくれたのが姉だったこと、仕事に戻ったのが記憶の中では三週間後になっているが実際は九日後だったことを、後で教えてくれる数少ない手がかりのひとつになる。今日はどれも重要に思えない。だが一年後、その時期が実際どんなものだったのかを、記憶がすり減らして残した形ではなく知ろうとするとき、いくつかは途方もなく重要になる。

書ける日には、実際に書く価値があるもの

  • 実際に何をしたか、今出せる一番素直な言葉で。感情がまだ言葉にならないなら、何をしたか、どこにいたかだけでいい。
  • 誰が来てくれたか、電話をくれたか、何かを送ってくれたか。「誰かが連絡をくれた」ではなく名前を書く。後になって名前を知りたくなるが、今書いておかなければ思い出せない。
  • その日を埋めた手続き――手配、電話、書類――名前を書くだけで十分で、詳細を書く必要は誰にもない。
  • ほんの小さなことでも、その一時間を支えてくれたもの。誰かが置いていってくれた食事。散歩。ちゃんと見てはいなかったけれどつけていた番組。

これは課題ではない。何日かは、これらのどれも思い浮かばないこともある。それでも構わない――一言だけでも、立派な記録になる。

この記録に、連続や毎日である義務はない

こういう時期に記録が途切れることは、壊れたわけでも、頑張らなかった証拠でもない。ただの空白であり、その日は書くことが何も残っていなかったというだけのことだ。一週間後でも一ヶ月後でも、何かを修復する必要も、沈黙を説明する必要もなく、また記録を開けばいい。書いた日の記録は、そのまま素っ気なく日付とともにそこに残り、また見る気になったときを待っている――多くの人にとって、それは今月ではない。そして、まさにその時になって、それらは本当に意味を持ち始める。

TimeMapは、その日がきちんとしていることを一行を書く条件にはしていない――守るべき連続記録もなく、始めたり止めたりするものも何もない。ただ一文と一色を日付とともに保存するだけで、見たいときはいつでもそこにあり、見たくないときはそのまま放っておける。

悲しみは直線的には進まない。それを記録するとしても、記録の形もまた直線的にはならない。この時期に書いた数行の素直な言葉が与えてくれるのは、今この瞬間の慰めではない。もっと素っ気なく、それでいて実際に役立つもの――自分ひとりでは、後になってはっきりとは思い出せないかもしれない日々に、実際に何が起きていたのかという正確な記録だ。