外にいる時間が昔より減っているかどうか、どうすれば分かるのか
自分が昔より外に出なくなったかどうか、聞かれてもたぶん「うーん」としか答えられない。「そんなことはない」でもなく、はっきりしない答えになる。記憶だけでこの問いに答えようとするのは、そもそも無理がある。「外に出た」ということが、これまで一度も、わざわざ残しておくような出来事として扱われてこなかったからだ。ある火曜日、郵便受けまで歩いて、日なたに四分間立っていた——そんなことを覚えている人はいない。この手の出来事は、それ単体で記憶になることがない。ただ起きて、そして消えていくだけで、それが少しずつ減っていく一年があっても、一度もニュースのようには感じられないまま過ぎていく。
「外にいた」は背景であって、記憶の中身ではない
記憶は、平凡な日々の連なりから浮き上がったものを残すのが得意だ。ケンカ、旅行、たまたまその日の気分と重なった特別な夕日。逆に、何度も繰り返されるだけで一度も浮き上がらなかったものを残すのは苦手だ。そのとき比較する相手が何もなかったからだ。犬の散歩で外に出る、ベンチに座ってサンドイッチを食べる、公園を突っ切って別の場所へ向かう——そのどれも、起きているその瞬間には「出来事」として認識されない。だから記録としても残らない。その結果、外で過ごす時間がそれなりにあった生活から、ほとんどない生活へと移っていっても、その変化自体が一つの記憶になることはない。「あの日から変わった」と指させる一日はない。なぜなら、変わったのはある一日ではなく、代わり映えのしない百個の火曜日、そのひとつひとつが前の日よりほんの少しだけ室内寄りだった、というだけの話だからだ。
天気の記憶が、実際の平均を覆い隠す
実際に残るのは、極端な日だけだ。丸一日を外で過ごした、うそのように天気の良かった土曜日。あるいは、一週間ずっと家に閉じ込められた嵐の日々。そしてこの極端な例こそ、そこから何かを推測するには最悪の材料になる。定義からして稀にしか起きないからだ。たいていの人に、どのくらいの頻度で外に出ているか尋ねると、典型的な一週間ではなく、思い出せる中で一番良かった一週間を語る。理由は単純で、その一週間だけが印象に残ったからだ。いつの間にかほとんど室内で完結するようになった、ごく普通の一週間は、同じ注目を集めることができない。だから比較のたびに負ける。それが実際には一年の大半を占める、より本当の姿だったとしてもだ。
実際に何が、このじわじわとした変化を起こすのか
「外に出る時間を減らそう」と決める人はほとんどいない。それはたいてい、何か別のことの副作用としてやってくる。歩く区間のあったオフィス勤務から、まったく歩かない在宅の机へ移ったこと。いつもより寒かったり暑かったりした季節が、そのまま「普段」として居座ってしまったこと。同じ用事のための徒歩が、車に置き換わったこと。ある冬に始まった巣ごもりの習慣が、春になっても元に戻らなかったこと。こうした変化はどれも、単独で見れば十分に理にかなっていて、そのどれもが「外にどれだけ出るか」について意識的に決めたことのようには感じられない。だからこそ、誰も意識して選んだつもりがないまま、総量が大きく変わってしまうことがある。誰もそれを天秤にかけていない。そもそも天秤にかけるべき問題だと、誰も思っていなかったからだ。
普段の記録は、実際に何を見せてくれるのか
この問いに正直に答える唯一の方法は、記憶に尋ねるのをやめて、記録に尋ねることだ。外にいたと気づいたら一行書く。だいたいどこで、何をしていたか。書こうと思ったときに書けばいい。歩数でも、目標でもない。ただの小さな、正直な印。それを数週間続ければ、たいていの場合、解釈を挟むまでもなくパターンが見えてくる。散歩や用事、玄関先のコーヒーが散らばっている一連の記録のあとに、ほとんど何もない一連の記録が続く。その二つのあいだの落差は、内側からの実感よりずっと大きいことが多い。たいてい驚かされるのは、答えがイエスかノーかということよりも、一気にまとめて推測するのではなく、一日ずつ並べてみたときに、その変化がどれほどゆるやかなものだったか、という点だ。
二つの期間を並べて読む
これが一番はっきり見える形は、一週間だけを単独で眺めることではなく、二つの期間を並べることだ。直近の一か月と一年前の同じ月。あるいは、ある変化が起きたあとの期間と、その前の期間。記憶ではこの比較を正直に行うことができない。両方とも、すでに同じ忘却によってならされてしまっているからだ。記録はならされていない。まだ結果を知らなかった人が、そのときに実際に書き残したものを見せてくれる。それは「たぶんそんなに変わっていないはず」という、今の自分の感覚とはまったく別のものだ。
TimeMapは、こうした記録を特別なことを何もせずに残せるようにできている。いま何をしているかを一行、いまいる場所で、カテゴリの色をひとつつけるだけ。「外にいた時間」をあらかじめ測る価値のあるものだと決めておく必要はまったくない。それでも、行が十分にたまって、二つの期間を実際に並べて見るときになれば、自然と見えてくる。
もし本当にじわじわと室内寄りになっていたとしても、それは自分から名乗り出るようなことではない。少し短くなった散歩や、行かなかった公園への一回は、起きているその瞬間には何かの出来事として意識されないからだ。記録のほうも、そのことについて何も感じてはいない。ただその一行を残しているだけだ。だが数か月後に振り返ったとき、実際にその日々がどんなふうに積み重なっていたのかを教えてくれるのは、結局、その一行一行なのだ。