同じ失敗を繰り返しているかどうか、どうすれば分かるか
何かを決めている途中、頭の奥のほうで声がする。これ、前にもやった。しかもうまくいかなかった。細部は何も伴っていない。ただ、平坦で、少し不吉な確信だけがある――これは再演だ、と。厄介なのは、この感覚が本当かどうかに関係なくやってくることで、しかも自分では何とも照合できない。だから、本物の警告を無視してしまうか、根拠のない警告に従ってしまうかのどちらかになり、そのどちらなのか、本人にも判断がつかない。
その感覚には日付がついていない
その瞬間に気づいているのは、具体的な出来事の記憶ではない。トーンが一致しているという感覚だ――今回のためらい方が、あのときのためらい方とよく似ている、形がなんとなく既視感を帯びている。トーンは実在する情報だが、証拠ではない。それがいつのことだったのか、実際に何を選んだのか、そもそも本当にまずい結果だったのかすら、何も教えてくれない。そうした事実は残っていないからだ。残っているのは残響だけで、それは形さえ似ていれば何にでも貼りつく。実際にはうまくいった出来事にすら貼りつく。
この警告がやたら確信に満ちているわりに中身が乏しいのは、そのためだ。確信の強さと記憶の詳細さは、感覚的には結びついているように思えるが、実際には別々の仕組みで作られており、比例しない。直感というものは、取り出せる中身がほとんどないまま、極めて強い確信だけを持つことができる。そしてこの組み合わせこそが、反論しづらく、同時にひどく間違いやすい理由になっている。
一つの記憶は、二つの証拠にはならない
本当に繰り返しているかどうかを知るには、漠然とした印象ではなく、具体的な二つの事例が要る。「自分はいつもこうだ」というのは、後から作られた要約であり、要約というものは容赦なく圧縮する。年代の違う、少し似ているだけの三つの出来事が、一つの「パターン」として記憶の中で平らにされてしまうことがある。実際には一度か二度しか起きていないのに、何度も繰り返されてきたように感じられ、しかもその一度二度の間にどんな違いがあったかは、要約の中で消えてしまっている。
本物のパターンには、それぞれの事例を切り離して、日付をつけて並べる必要がある――今回のこの具体的な選択を、あのときのあの具体的な選択と、それぞれの状況ごと突き合わせる。そうやって切り離せば、パターンは実際に検討できるものになる――状況の何が違ったか、そのとき何を知っていたか、結果が本当に今回恐れているものと似ているのかどうか。ぼんやりと「自分はいつもこうだ」に圧縮してしまうと、残るのは感覚だけになる。そして自分自身のパターンについての感覚は、あまり当てにならない語り手だ。
記憶だけで推測すると、なぜ決まった方向に間違えるのか
以前の出来事を記憶だけから再構成しようとすると、多くの人はある決まった方向に間違える。記憶は出来事の内容よりも、その出来事が帯びていた感情の強さのほうをずっと長く保持する。だから浮かび上がってくるのは、たいてい最悪のバージョン――もっとも「失敗だった」と感じられたバージョンだ。実際の履歴には、うまくいったこともあれば、その選択自体とは無関係な理由で悪い結果になったこともあるかもしれないのに、そうした事実は残らない。三年前の一度の悪い結果が、繰り返されてきたパターンとして記憶に定着してしまうことがある。実際にはパターンなど存在せず、ただつらかった一年が、習慣という衣装をまとっているだけなのに。
逆の間違いも同じくらいよく起きる。本当に三度も四度も繰り返されてきたことでも、それぞれの出来事が離れた時期に起きていて、一度も並べて見比べられたことがなければ、一度きりのことのように感じられてしまう。何もきっかけがなければ、それらが同じ形をしていると気づかないからだ。この二つの間違いは、どちらも同じ原因から来ている。記憶は、出来事を一つひとつ切り離し、日付をつけて保存するようにはできていない。記憶は圧縮するためにできていて、その圧縮こそが、いま確かめたいことをまさに消し去ってしまう。
本当に決着をつけられるのは、これだけだ
この問いをきれいに決着させる方法は一つしかない。以前の出来事を実際に見つけ出し、いま思い出している感情ではなく、そのとき実際に起きたことを読み返すことだ。気分でも要約でもなく、具体的な決断と具体的な状況を、まだ教訓に圧縮されてしまう前の、できるだけそのときに近いタイミングで書かれたものとして読む。今の状況と並べて読めば、本当によく似ているか、まったく重なっていないか、たいてい数行読むだけで分かる。恐れていたとおり、パターンがそのまま繰り返されている場合もある。以前の出来事を掘り出してみたら、表面的な形以外にほとんど共通点がなく、その不安が静かに引いていく場合もある。
どちらの答えであっても、根拠のない確信のまま抱えているよりはずっと価値がある。本当に繰り返していると分かれば、次に何を変えればいいかが具体的になる。繰り返していないと分かることも、それ自体が一つの安堵になる――ただし、その安堵は、直感だけでは手に入らない。
TimeMapについて
これが成り立つのは、以前の出来事がそのとき実際に、記憶が残せるよりも本来の姿に近い形で書き留められていた場合だけだ。TimeMapが残すのは、日付のついた一行――評価ではなく、そのとき何をしていたかだけだ。だから、再演のように感じられる瞬間があっても、それが本当に響き合っている以前の一日と、実際に並べて確かめることができる。感覚だけを相手に、一人で言い争う必要はない。
「これ、前にもあった気がする」という感覚は、耳を傾ける価値がある。ただ、それ自体は証拠ではない。本当に決着をつけられるのは、以前のその日を見つけ出し、淡々と読み直すことだけだ。そしてそれができるのは、その日が本当かどうかも定かでない教訓に圧縮されてしまう前に、すでに書き留められていた場合に限られる。