その趣味、まだ続いているのか、名前だけ残っているのか
ギターを持っている人に「弾くんですか」と聞けば、たいてい「弾きます」と即答が返ってくる。最後に触ったのがいつかを思い出す前に、である。嘘をついているわけではない。「自分はギターを弾く人間だ」という自己紹介が、いつかどこかで一度だけ真実として登録され、その後だれも見直していないだけだ。
趣味は辞表を出さない。ただ現れなくなるだけだ
仕事を辞めるときには日付がつく。趣味をやめるときには、たいていつかない。「もうギターはやめよう」と決める火曜日があるわけではなく、弾かない一週間があり、次に弾かない一か月があり、やがてケースが部屋の一部になる。終わりを告げる出来事が何もないので、終わったことを知らせるものも何もない。「自分はギターを弾く」という自己像は、かつて本当だったころの惰性だけで動き続け、それは実態が止まってからもかなり長く続く。
記憶が残すのはハイライトで、頻度ではない
ギターについて覚えているのは、うまく弾けた夜のことだ。友人に褒められた瞬間のことだ。そういう場面は鮮やかだから、話題に出るたびに真っ先に浮かんでくる。そして鮮やかな記憶は、実際には古くても新しく感じられてしまう。記憶が自然には残さないのは、その前後の空白のほうだ——あの夜の前に静かだった十一週間と、後に静かだった七週間。頻度は覚えていてもつまらないので、忘れられやすい。だからこそ、肩書きのほうが実態より長生きする。
記憶がぼかすものを、記録は映す
記録はどのセッションが印象的だったかを気にしない。実際に書いた一行だけを、その日のところに残しているだけだ。数か月分を読み返すと、記憶とは違う問いに答えが出る。「良い夜が一度でもあったか」ではなく「実際に何回現れたか」だ。答えが想像どおりのこともある。そうでないことも多い。趣味は思っていたより薄かったか、あるいは逆に、地味な短い時間の中で意外としっかり続いていて、それがハイライトに入らなかったせいで、これまで一度も数えられていなかったのかもしれない。
これは採点ではない
はっきりさせておきたい。これは「自分は遅れている」と感じるための材料ではないし、何かに失敗した証拠でもない。興味は本当に移り変わるし、注意も本当に別のものへ向かう。何か別のことに場所を譲って自然に薄れていった趣味は、片付けなければならない未完の宿題ではない。記録を見返す目的は、ほこりをかぶったギターケースに罪悪感を持たせることではない。いま実際にどちらなのか——続けている、頻度が落ちている、もうやっていない——を、長らく見直していない肩書きに頼らず、ただ正確に知ることだ。
答えがどちらでも、次にできること
- 記録が「続いている、ただ静かになっただけ」と言うなら——それ自体が価値のある情報だ。月に一度でも現れる趣味は、頻度が高い趣味の失敗版ではなく、それ自体で立派な趣味である。
- 記録が「止まっている」と言うなら——もう一度始めるか、その肩書きを手放すか、自分の意思で選べる。実態とずれた自己紹介をいつまでも持ち歩かなくて済む。
- 記録が意外な結果を見せるなら——めったにないと思っていたことが実は続いていた、あるいはその逆——その、思っていたことと記録との差こそが、たいてい一番おもしろい部分だ。
TimeMapについて
TimeMapを使うと、これをわざわざ調べようとしなくても自然に見えてくる。あることに一度カテゴリと色を決めておけば、その下に残していく短い一行が積み重なって、あとからカレンダーとして見返せるし、カテゴリ別の集計として、自分の日々が実際どこに向かっているのかも見える。その場では自分を採点しているわけではなく、ただ淡々と跡を残しているだけだが、それがあとになって、思い出したときに正直な答えを返してくれる。