今年がいい一年だったかどうか、何で判断すればいいのか
「今年はいい一年だったか」と自分に聞くと、答えはほとんど即座に返ってきます。何かをきちんと振り返る前に、もう答えが出ているくらいの速さです。この速さ自体を疑ったほうがいいのです。三百六十五日を半秒で計量して合計することなど、本来できるはずがありません。その速さで出てきたのは、一年に対する判定ではなく、その一年を代表することになった三つか四つの出来事に対する判定です。
投票しているのは日々ではなく、数件の出来事
その三つか四つが実際に何だったか、書き出してみてください。たいてい、昇進か離職、始まったか終わった関係、旅行、病気、結婚式、誰かを失ったこと。どれも本物で、重要です。ただしほぼ定義上、それらは例外でもあります。ほかの三百六十日の流れを崩した日だからこそ、記憶に残っているのです。ほとんどが普通の火曜日だった一年が、普通ではなかった数日だけで丸ごと判定される。つまり判定を下しているのは、証拠全体のごくわずかな部分にすぎません。残りの大部分に発言権がないのは、重要でないからではなく、単に「出来事」として記憶に刻まれるほど目立たなかったからです。
終わり方が、実際よりも重く数えられる
もう一つ、別のゆがみが重なります。一年がどう締めくくられたかが、その年全体の色をあとから塗り直してしまうのです。春と夏は悪くなかったのに秋が苦しければ、月ごとに見れば大半はそうではないのに、一年全体が「苦しかった年」として残ってしまいます。逆に、最後がよければ、本当に厳しかった春を「少し波乱含みの滑り出し」くらいに和らげてしまうこともあります。どちらの記憶も、嘘をついているわけではありません。ただ、直近の数か月が記憶の中でいちばん新しいというだけで、実際の割合以上の重みを持たされてしまうのです。
「いい年か」は、平均できないものを平均させようとする
この問いはさらに、答えが一つの数字に収まると勝手に前提しています。しかし一年には、たいてい互いにほとんど関係のない、いくつもの判定が同時に走っています。仕事はうまくいっていたのに、ある友情は静かに薄れていたかもしれません。体調はよくなっていたのに、家計は苦しくなっていたかもしれません。「いい年だったか」という問いは、それらすべてを一つのイエス・ノーに押し込みます。その瞬間、記憶の中でいちばん声の大きい一本の線が、他のどの線にも関係なく、答え全体を決めてしまいます。
実際の記録は違うことを語る
一年分の、ハイライトではないただの記録——ふつうの日に書かれたことだけ——を読み返すと、浮かび上がる形は、記憶がすぐに差し出してくる一言の判定より、たいてい地味で、そして具体的です。記憶が「悪い年」として片づけていた期間が、読み返してみると本当に苦しかったのはわずか六週間で、その前後は悪くない、むしろ静かにいい月だった、というのはよくあります。その六週間がいちばん声が大きかったせいで、周りの月まで同じ気分に巻き込まれていただけなのです。逆のことも起きます。「楽だった年」として記憶されている年が、一行ずつ読み返すと、実際には長く地味に苦しい時期を抱えていた、ただ当時は誰もそれを愚痴るほどのことだと思わなかった、ということもあります。どちらの修正も、記憶だけからは手に入りません。記憶が保存していたのは日々そのものではなく、物語だったからです。物語には判定が必要で、分布は必要とされません。
一年と一年を並べて比べるときにも、これは記憶にはできないやり方で役に立ちます。記憶が比べるのは、すでに一つの気分に均されてしまった二つの判定です。記録が比べるのは、それぞれの年があとでどう総括されるかをまだ知らなかった人が書いた、実際の日々そのものです。
TimeMapについて
TimeMapは、こういう読み返しのために作られています。何をしていたかを一行書き、色をつけ、日付をつけて残す。その日を採点することは求めません。評価もチェックもなく、カレンダーはいつでも八か月前の何でもない一週間に戻って、そこに実際何が書かれていたかを確かめられます。今年の締めくくりの気分が、いま何を信じさせたがっているかとは関係なく。
一年は、良いか悪いかで片づけられるほど単純な一つのものではありません。数百の独立した日々が、問われた瞬間に一つの言葉へ圧縮されただけです。その圧縮自体は間違いではありませんが、たまには、日々そのものが実際に語っていることと突き合わせてみる価値があります。