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同じ一週間を、去年と今年で比べるにはどうすればいいか

毎年、勝手に戻ってくる週というものがある。新学期が始まる週。家族が毎年同じやり方で過ごす連休の週。学会の前の週、あるいは後の週で、何もかもが少し遅れている週。今年のその週は去年より良かったのか、悪かったのか、それともだいたい同じなのか、気になるのは自然なことだ。だが最初に返ってくる答えは、たいてい本当の比較ではない。「その週はいつもだいたいこんな感じ」という、ただの印象でしかない。

「同じ週」は、同じ日付とは限らない

まず見落とされがちなのがここだ。新学期の始まりは毎年同じ日付とは限らない。土日に固定された連休は、年によって曜日の並びが変わる。締め切りが年ごとに何日かずれれば、その前の一週間もそのぶんずれる。つまり「同じ週」は、ほとんどの場合、同じ暦週を意味しない。意味しているのは、毎年戻ってくるその節目を中心に組み立てられた一週間であり、その節目が今年たまたまどこに落ちたか、でしかない。日付だけで比べると、まったく違う日どうしを比べてしまうことがある——たまたま日付が一致しただけで、今年の何でもない火曜日と、去年の引っ越しで大わらわだった一日を並べてしまうように。

比べているうちに、気分だけが残ってしまう理由

正しい週を選び出せたとしても、比較が比較のままでいられる時間は短い。今年のその週は、まだ生きている最中だ。疲れも、興奮も、苛立ちも、まだ何ひとつ和らげられていない。去年のその週は、十二か月かけてすでに圧縮されている。普通だった部分はもう消えていて、残っているのは「あの週は大変だった」「あの週は良かった」といった、ひとまとまりの印象だけだ。この二つを並べるということは、実は二つの週を比べているのではない。今まさにその中にいる週を、噂話でしかなくなった週にぶつけているだけであり、その噂話には細部がほとんど残っていない。

この比較は、最初から公平ではない

しかも、この不公平には決まった向きがある。今いる週は、まだ薄れきっていない小さな苛立ちまで含めて、いちばん解像度の高い状態で判定される。去年の週は、もう何も刺さらなくなるくらい落ち着いた距離から判定される。この非対称さだけで、今年の節目の週は去年より悪かったように感じられてしまう。今年が実際に悪かったからではなく、今年だけがまだ近くて、まだ痛むからだ。

本当の比較が見ているもの

そのとき書き留めた記録が両方の週にあれば——あとから思い出して組み立てたものではなく——見えてくる違いは、たいてい「どちらが良かったか」とは関係がない。もっと小さく、具体的だ。

  • その週をかつて埋めていたカテゴリが、今はほとんど出てこない。 去年の連休はほぼ一色だったのに、今年は違う、あるいはその逆。
  • かつてその週に出てきていた誰か。 去年のその週の記録には毎日出てきていた名前が、今年はまったく出てこない。
  • その週がいつもどう終わるか。 去年の学期最後の日は安堵の言葉で終わっていたのに、今年はまったく違う言葉で終わっている。
  • 同じ曜日どうしを比べる。 その節目が去年は木曜日、今年は月曜日に落ちたなら、それぞれの週の中で木曜日は木曜日と、月曜日は月曜日と比べる。曜日をまたいで比べると、週末と平日を知らないうちに比べてしまう。

ここまで、所要時間は一切必要ない。何があったかを一行書き、カテゴリと色を添えるだけで、一年前の同じ一行と並べるには十分だ。

推測ではなく、実際に確かめるために要ること

この非対称さを避ける唯一の方法は、去年のその週を記憶に持たせようとするのをやめて、当時実際に書き残したものを読むことだ。TimeMapは一日を数行の短い記録として残し、カテゴリの色を添えて、実際にその日にあった出来事として日付順にしまっておく。そして、ある年のある期間を、翌年の同じ時期の記録と並べて見ることもできる。今年のまだ冷めていない疲れを、去年の疲れの記憶にぶつけるのではなく、書き残された週どうしを並べる——それだけが、公平に比べられる唯一の組み合わせだ。

その週がいつもどんな感じかを覚えておく必要はない。必要なのは、その週がまだ進行している最中に書き残した記録を、去年の同じ記録の隣に置くことだ。そうすれば答えは、今この火曜日がたまたまどんな気分かではなく、読むことから出てくる。